・二月五日 恵山電気株式会社が開業し送電を開始する。(椴法華水力発電所出力十五キロワット・タービン始動)
この当時の電球は、現在のような明るいものではなく、大部分が十ワット、十二・五ワット、二十ワットであり、電燈が初めて椴法華村に灯いた頃には、ランプのほやをみがくように毎日みがいたり、吹いて消そうとしたりする人々があったということである。また電燈の取付け数が増加するにつれて次第に電燈が暗くなる現象が見られた。また古老の語るところによれば、この電燈をひと目見ようと近在より来村する人達があり、電燈が灯いていると眠れなくて困ると云う村民もあったということである。
大正10年頃の椴法華発電所
・三月十五日 戦後の恐慌発生、株式、米、綿糸、生糸市場大暴落し最悪の経済状態となる。
・四月一日 椴法華尋常小学校に村民待望の高等科が設置され以後椴法華尋常高等小学校と改称される。
・四月二十三日 日本銀行、経済混乱の鎮静化のため金一億二千万円の貸出しを決定する。
・五月二十四日-二十七日 尼港(にこう)事件発生、ニコライフスクで獄中の日本人百二十名が殺害される。
・九月 道庁、「機船底曳網漁業取締規則」を制定する。
ここ数年来底曳網船が全道の海岸線に出没し、沿岸漁業資源が急速に減少する傾向を見せはじめ、この取締規則が制定されることになったものである。下海岸における実情は川崎船・磯船・保津船と機船では、行動範囲も速力も漁獲高もてんで問題にならず、また底曳船は沿岸漁業資源を枯渇させるばかりでなく、沿岸漁民のはえ縄や漁網に大きな被害を与えており、激しい怒の対象となっていた。
このような取締規則が制定されたにもかかわらず、これ以後も底曳船が下海岸・陰海岸に出没し、沿岸漁民の生活を脅かし、ついには古部村で乱闘事件さえ発生するような有様であった。
・十月一日 第一回国勢調査実施。
政府は、日本の現勢を知り国際情勢に対応するため、明治三十五年十二月「国勢調査に関する法律」を公布し、国勢調査を実施しようとしていた。しかし当時は日露戦争後で国の経済が安定せず、多額の費用を支出することはむずかしい状態であった。このため国勢調査の実施は延期されていたのであるが、大正九年になりようやく実施の運びとなったものである。
第一回国勢調査の内容は、大正九年十月一日、午前零時現在の氏名・世帯の位置(地位)・男女の別・生年月日・配偶者の関係・出生地・職業などの調査で、調査員はこれらの内容を正確に調査し国に報告する仕組みになっていた。
・十月三十日 椴法華尋常高等小学校開校四十周年記念式を挙行する。
・この年、椴法華村民斉藤、水田耕作を実施。
・この年、『しゃぼん玉』、『安来節』、『おけさ節』等流行する。
・この年、十月に賀川豊彦の『死線を越えて』が出版された。その後百万部をこえるベストセラーとなる。