昭和四年(一九二九)世界大恐慌の年、アメリカではトーキー映画(声の出る映画)が公開され、日本ではこの二年後の昭和六年国産トーキー映画が完成された。第一作は松竹映画「マダムと女房」で日本国中の大反響を受け、その後は全国津々浦々まで広まっていったといわれている。これより約二年後、椴法華の人達の中にはトーキーの評判を聞き、どうしても一度これを見たくなり、ある人達は船で、またある人達は十時間を掛けて徒歩で函館までトーキー映画を見に行ったとのことである。
外国人の男女なら大抵ジャックとベテイで片付けてしまう当時の田舎の活弁(無声映画の説明者)より知らぬ村民にとって、画面より出るさまざまな音、人の声にはびっくりしたとのことである。なおトーキーが椴法華クラブへ来るのはこれより大分後のことであった。