昭和十六年十二月八日午前六時暁の静けさを破り、ラジオは突然重大放送を行った。「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋において米英と戦闘状態に入れり」早朝のラジオ報道は朝起きの早い漁師にすぐに知れ渡り、全村はこの話しで持切りとなった。当時大人であった村民達の語るところによれば、遂に「来るべきものが来た」と悟ったような顔をしている者、事の重大さに声の出ぬ者、感情を抑えている者、感激、興奮する者等さまざまな姿が見られたということである。
この日午前十一時四十五分「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕玆ニ米國及英國ニ対シテ戦ヲ宣ス………」という宣戦の詔書が発せられた。
村民はこの日一日中、緊張しラジオの前にむらがり耳を傾けていたが、「我が軍は外地で戦争し日本本土は戦場にならない。且つその以前に戦争は終結してしまうであろう」というのが大部分の話であった。昭和十六年十二月の開戦の頃、防空演習・避難訓練・救難訓練はなされることはあっても、実際に身近かで必要になるなどとは考えられておらず、この時からわずか二年余りの後敵潜水艦が前浜に出没したり、その後更に敵機が椴法華村の上空に侵入するなどとは誰も予想することができなかったといわれている。