昭和十七年三月、アメリカ軍がガダルカナルで反撃を開始して以来、戦局は急速に日本にとって不利な状況となり、日本軍は各方面で敗退を続けるようになった。しかし毎日の新聞やラジオの報道は厳しい報道統制の中で心ならずも、赫々たる戦果ありとしか発表するより道は残されておらず、国民には少しも本当の事実は知らされないまま戦争が遂行されていった。
またこの頃から労働力・各種生産資材・特に農村の肥料、漁村の石油及び漁具の供給が急速に悪化し、農漁業の生産力は急激に下降線をたどりはじめ、深刻な食糧危機の様相を示しはじめていた。こうした情勢を背景として昭和十九年を迎えたが、この年の気候は比較的安定しており、農業生産力も回復するものと期待されていたのであるが、七月のサイパン島陥落とともにB二九が日本上空に出撃して来るようになり、空襲の激化に伴い農漁業の生産計画を達成することは不可能な状況となってしまった。
この年の八月には政府によって学徒動員令や女子挺身隊勤労令などが出され、またB二九の襲来や恵山沖への敵潜水艦の出没から推察して、いよいよ本土決戦が間近いことを村民の身にひしひしと感じさせるようになり、村民の中には一億総玉砕の決意を固める者も出てきた。
次に昭和二十年二月二十七日第一回村会開催のおりに、谷内村長によって行われた村会開催宣言の中には、当時の社会情勢を示す一文があるので参考として記すことにする。
〔昭和二十年二月二十七日椴法華村長 村会開会宣言より〕
本日昭和二十年度第一回村會ヲ開クコトヲ得マシタコトハ誠ニ欣幸トスル處デアリマス。開議ニ先立ツテ此ノ機會ニ所信ノ一端ヲ申上ゲタイト存ジマス。今ヤ帝國ハ未曽有ノ難局ニ直面シテ参ツテ居ルコトハ各位克ク御案内ノ通リデアリマシテ敵米國ハ刻々ト我ガ神土ヲ浸サントシ凡ユル物量ヲ動員シテソノ豊富ナルヲ恃ミテ帝國ノ周辺ニ迫リ此島ヲ始メ我ガ本土ノ玄関タル硫黄島迄モ浸シ又連日ノ如クノ暴虐飽クナシ無差別爆撃ヲ敢ヘテスルノ暴挙ニ出デ小癪ニモ我ガ帝國ヲ抹殺シヨウト豪語シテ居ルノデアリマス。然シ乍ラ我ガ陸海軍将兵ハ特別攻撃隊ヲ編成シ一機一艦ノ体當リ敢行一人十殺ノ斬込隊ノ敢行正ニ鬼神ヲモ哭カシムル勇猛果敢ナル勇戦奪闘ヲ続ケ随所ニ之ヲ撃破シテ居ルノデアリマス。此レ等特別攻撃隊等勇士に對シテハ一億國民斉シク威謝感激措ク能ハザル所デアリマシテ益々憤激ヲ新ニシ私利私欲ヲ打捨テ特攻隊精神ヲ以テ戦争遂行ニ挺身セネバナラヌト思フノデアリマス。
本村會モ此ノ精神ヲ以テ終始慎重審議願ヒタイト存ジマス。