昭和二十年・敗戦からの再出発

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 昭和二十年八月十五日 終戦の大詔が放送され、大きな虚脱感と何ともいわれぬ敗北(ぼく)感、そして云いようのない屈辱(くつじょく)感に人々は包まれたが、このような感傷にいつまでも浸(ひた)っているわけにはいかなかった。
 敗戦後数日して米軍の占領があるので、役場の戦争に関係ある全ての文書は、焼却するようにとの上部からの命令(どこから出されたものかはっきりせず)に基づき、椴法華村では二日間に亘って重要文書の焼却が行われた。(この時村の古い文書が多数焼かれ、またこれ以前七月十四日の役場空襲の際、失なわれた書類を含め重要文書の大部分が無くなり、その後の村史編集作業に大変な苦労をすることになる)
 十月四日 函館へ米兵約六千人が進駐、十月十五日までに日本軍の武装を解除するように命じた。一方米軍は直ちに日本軍の要塞・監視所・兵舎・弾薬庫・艦船・飛行場等について調査を行い、米軍占領上好ましからぬ施設や物品は、爆破及び海中投棄等の処置をとりはじめた。
 当時恵山岬には軍隊の監視所が設置されていたが、十月末頃旧日本軍関係者の案内により、米兵が来村し監視所及びその付属施設等を調査し、監視所内に設置されていた電探を破壊し立去ったといわれている。この時村内の誰にも立合いは許されず、後日監視を依頼された駐在所の警察官が立入を許され、ようやく様子が判明したものである。
 また占領後、時期は明確でないが、銚子沖でアメリカ軍艦による機雷の掃海作業が実施された。村民の語るところによれば、二隻の軍艦の間にワイヤーを張り、海中をくまなく引き廻したとのことである。公式には何も記録されたものは無いが、戦争末期米潜水艦向けに敷設されたものであろうか。
・占領後の村内のうわさ
 この頃村内のうわさによれば、米軍が日本を占領すると男は捕虜として奴隷のように働かされ、女は米軍の女にされてしまうというようなことがもっともらしく云われ、村内にどうしたらよいかと深刻に考える人も出てきたと云われている。このような中で函館方面へ出かける女性には、身だしなみを整え、派手な化粧をしたり、素肌を出さないように、夜間外出は出来るだけしないこと等が、役場から注意事項として発せられていたと云われている。

戦災校の悲運 椴法華小学校沿革史


空襲のため焼失した椴法華国民学校 昭和20年7月15日