昭和二十一年

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・昭和二十年七月十五日の空襲により椴法華国民学校が焼失したため、この年二月二十二日、椴法華国民学校の修業式を椴法華クラブにおいて行う。
・四月二十九日 椴法華国民学校・クラブ・兵舎等において二部授業による新学期を開始する。机・椅子等はほとんど無く、わずかに黒板と各自持ち寄りのみかん箱等を、机がわりとし授業を行ったと云われている。
 昭和二十年八月以後、陸上交通は悪化の一路をたどり、バスは一日一便がようやく確保されるような状態であり(時々車両の故障や天候により、又は積雪等により運休することもあった)。またトラック便も運行が少なく、漁獲物の運搬や冬期に使用する石炭・薪・食料品の輸送時には大へん不便であった。
 このため九月三十日には、関係町村に依り道庁命令航路・臼尻線の再開が陳情され、十一月三日から函館・臼尻が道南海運に依って運行されるようになり、地域住民を大いに喜ばせるような有様であった。
 この年極端な物不足に見舞われたが窓ガラスもその中の一つであり、これが非常に高価であることから、小学校などの公共建物のガラスが多数盗まれ、たまりかねた村当事者は、ガラスに水晶などで名前を書き込むようになった。またタバコも非常に不足したため、ドンゲの葉を干して紙に巻きタバコ代りに飲む者が出てきた。その他マッチも不足したため、いろり火などで火種を絶やさないようにすることが良き嫁の仕事などとも云われるようになった。