昭和二十四年

290 ~ 291 / 1354ページ
 学校教育の充実と公定価格の廃止
・一月一日 函館放送局第二放送開始。
・二月十五日 水産業協同組合法施行。
・四月一日 小学校十二学級、中学校五学級を僅か六名の教員でスタート。(二部授業と隔日登校により、ようやくやりくりする。)その後五月一日になり、やっと六名の教員が増員され隔日授業が廃止される。なぜこのように教員が不足したのだろうか。教員の給与が物価上昇に追いつけず非常に安く、高校新卒の給与は、三千八百五十円、下宿代四千円という有様で教員の成り手がなく、一度来村して教員となった人を逃がさないようにするのが、校長の大きな任務の一つだとさえ云われていた。このため教員となっても半ば公然とアルバイトが許されており、昼は学校、夜はいか釣(いかつけ)の男子教員が多数存在していた。なおいか釣に出漁した場合、教員の給料分は二、三日あれば稼ぐことが出来たと云われている。
・六月二十四日 椴法華漁業協同組合設立。
・九月六日 椴法華中学校PTA創立。
・十一月二十一日 椴法華中学校二部授業解消し、教科担任制となる。(なおこの時椴法華中学校の校舎は、昭和二十三年三月十日に新築落成された三教室、小中併置の建物が使用されていた。)
 昭和二十四年は種々の物品統制や公定価格が少しずつ廃止されはじめた年でもあった。
 各種の物品の統制は昭和十二年満州事変の勃発後、昭和十三年から石油・石炭、昭和十五年から米・砂糖・マッチ・家庭用ビールの配給又は切符制、昭和十六年から麦雑穀類、昭和十七年食塩・衣服・鮮魚介類、昭和十八年から木炭・薪・たきぎ等、戦略物資ばかりでなく、食料品・日用家庭用品に至るまでほとんど統制下におかれていた。このため人々は耐乏生活を余儀なくされていたのであるが、戦後昭和二十四年に至りようやく各種産業が復興のきざしを見せはじめ、自由に品物が買える日々が徐々にもどってきたのである。すなわちこの年から昭和二十五年にかけて、種々の統制令が廃止され、次第に自由に物が購入出来るようになり、大部分の物品の公定価格が廃止されるようになっていった。
 次に参考として主な生活必需品の統制撤廃や自由販売が認められた年・月を記すことにする。