昭和四十三年七月、函館市志海苔町の道路工事現場より、三個の甕に合計三十七万四千枚以上の銭が入って発見されたが、この事実は、十四世紀後半頃既に和人集落が形成され、これだけ大量のお金を蓄えるだけの生産、交易ができるようになっていることを物語ものと考える。
文化十年(一八一三)頃、脇ノ沢の山神神社境内より掘出されたと伝えられる鰐口が函館市銭亀沢町の石崎八幡宮に保存されている。この鰐口は、「奉寄進夷島脇沢山神御宝前 永享十一年(一四三九)三月三日、施主平氏盛阿弥敬白」と刻まれておりこの鰐口が存在するということは、鰐口を寄進することができるほどの経済力を持つ物がおり、更に社を祭るだけの集落が形成されていたものと考えることができる。