昭和二十一年の村情勢

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 昭和二十一年十一月七日、谷内久吉元村長から助役小畑定夫に宛てた『引継演説書』の抜粋を記し、当時の村情勢を知る手がかりとする。
 
     引継演説書
  一、椴法華國民學校戰災復興方の件
   昭和二十年七月十五日の空襲に依つて椴法華國民學校は不幸屋内運動場の一部を焼残したのみで十五學級の校舎及校具の総てを灰塵に帰したのでありますが、當村には他に児童を収容する學校の設置なく従而本校復興は最も急を要する次第なので本春来八十五萬円の工事費を以て之れが計画を樹て特種財源を有せない當村としては之れを起債に仰ぐの外なくそれ〴〵手続を為したのであるが、結局二十年度に於て其の一部二十萬円の借入を認められたので差當り第一次計画として五教室(附属玄関児童昇降口便所渡廊下を含む)の新築と焼残りの屋内運動場の修理に着手十一月竣工を見たのであるが之れが工事費は、着工以来、諸物價の増嵩に依り総工費四十三萬余円を要するに至つたので不足額は村民の寄附に依るの外なく部落會に割當募集中に付之れが収入を挨って工事費の支拂を完了せられたい尚今後の復興については更に計画を樹て實現方に付御努力ありたい。
  一、國費大漁港築設の件。
  一、船入澗修築の件。
  一、椴法華森間地方費道開鑿方の件。
  一、災害復旧工事施行方の件。
  一、住宅建築並修理方の件。
  一、隔離病舍建築の件。
  一、役場廳舍修理の件。
   村役場廳舍は昭和二十年七月十五日の空襲で破損したが未だ完全の修理が出来ないので適當財源を求め修理せられたい。
 
 なおこの年十一月、谷内久吉椴法華村長は、追放令により退職する。(全国の市町村長が公職追放令により一斉に解任される)
 昭和二十年八月椴法華村は戦争から解放され、昭和二十一年を期して新しい平和な椴法華村建設のために立ち上ろうとしていた。
 しかし前に記した村長の引継演説書からも知られるように、椴法華村の再建を図ることは容易なことではなかった。
 すなわち椴法華国民学校(現椴法華小学校)の再建・漁港建設・船入澗の修築・道路の開削・住宅建設等は、膨大な財源を必要とするものばかりであり、戦後の混乱期にあって国や道からの援助はあまり期待できなく、一村の経済力ではどうすることも出来ないものが多かった。
 中でも最も重要事項である小学校の復旧工事費は総額八十五万円と算定されたが、村費ではまかなうことができず、やっと二十万円を借入れ五教室を建設した。しかし工事中に資材及び建設費はインフレーションのため暴騰し、完成時には四十三万円にもなり、値上り分の建設費は村として工面のしようがなく、村民の寄付により何んとか間に合わせようとするような状態であった。

昭和二十一年度村費仕訳書 歳入


歳出