昭和五十年四月二十日、椴法華村長選挙が告示され、長政友一、鎌田作郎の二人が立候補届を提出、村長選はこの両者の激烈な戦いとなったが、四月二十七日投票が行われ鎌田作郎の当選が決定した。
かくして昭和五十年五月一日、公選第三代目村長に鎌田作郎が就任「明るく住みよい郷土の建設」を施政方針の基に四年間の村政を担当することになったが社会の急激な進展に内外の諸情勢は厳しく、この難局をどのようにして乗り切って行くか試練の船出であった。第一の問題として、四十年代後半からの石油危機をきっかけとした、国際間事情から経済状態が非常に不安定となり、このため食糧問題や物価高騰問題などが相次いで発生し、政府は、このような情勢に対応するために総需要抑制、金融引締等に全力を尽し更に新規の公共事業は着工を見合せるなどの対策をとることになったことからの影響が大きいこと。
第二に、過疎問題が椴法華村に大きくのしかかってきたことである。
基幹産業である水産業の実態は、回遊魚の激減と乱獲の影響により沿岸資源が急速に減少し、また漁船、漁具等の近代化により合理化や省力化が促進されて小規模経営の漁家での労働力は、家庭内で間に合うようになった。このような状況の中で漁業生産による生計維持が困難になり漁業に見切りをつけ、住みなれた地に思いを残しながらも転出したり、道内外に仕事を求めて出稼する家庭が多くなってきた。
椴法華村では水産業以外の産業はあまり発達しておらず、このため学校を卒業しても村内で就職することが出来ず、やむなく若年層労働者は都市部に出なければならない状況に置かれていた。この若年層労働者の村外流出は、就業者の高齢化に大きく影響を与え、産業後継者の不在という将来に大きな問題を投げかけるもので水産業を中心とする産業の整備、開発が求められていた。
この他にも、交通体系の整備、教育文化、医療等福祉施設の整備と多くの問題が山積みとされ、過疎化現象に対する積極的対策を取るよう地域住民より強く望まれていた。
このように村内外の諸情勢には厳しいものがあったが、住民の快適で生活しやすい「希望と活気にみちた村」づくりのため、村長、村会議員等により村の今後の進路と発展が開発、研究されて、次のような行政方針が打ちだされた。