明治時代の中頃には矢尻浜附近で盛んに地引網で鰮が漁獲された。この頃の漁法は三人乗の磯船(二人がこぎ手)に船頭が乗り、かもめ、海の色あい、あわ等で鰮の魚群の位置を調べ、マネ(昼は旗の組合せ信号、夜は松明を燃やす)を上げる。これを陸のヤグラの上で物見が受け、呼んだり、鐘などを鳴らして若い者へ知らせる。胴船一艘に若い者が二十数人乗り込み、サッカイ十八枚くらいで漕ぎ、艫櫂で舵をとり海に漕ぎ出し引網を廻わした。一ヶ統の網はおよそ四十二、三人の人を必要とし大部分はやとい人を使用した。
網は袋網を使用し網を曳き終ると、寒中でも裸で袋を縛るため海中に入らなければならなかった。
なお元村では引網を使用せず、建網を使用網船は三ンパ船を使用していた。やとい人は東北地方からの人が多く、中でも南部(岩手県)宮古から椴法華へ来た人が多かった。