夏漁~七月下旬より二百十日まで
秋漁~二百十日より十一月下旬まで
の二期に分かれており、漁獲方法としては、釣り漁と網漁に分かれているが、大部分が釣りにより漁獲され、釣漁具は「さお」・「やまで」・「はねぐ(はねご)」・「とんぼ」等が使用されていた。
「さお」は一本釣で他はみな天秤形のものであった。「山手」という漁具は天秤の両端に長さ三尺から二尋位の細糸を付け、その端に鉛の錘に数十本の針錨状のものを付け擬餌針とし、山手の中央から長さ七・八尋から十尋の糸を付け、これを竿に付けたもので、これらの全体を「山手」という。
「とんぼ」は明治初期に考案されたものらしく、握り木へ二本の竿頭を開かしはさめ、それに適当の長さに釣糸を付けたもので、烏賊の深くに居る時水面近くまで呼び上げるに使用する漁具である。これらの漁具は烏賊の居る場所によって使い分けられており、「とんぼ」は烏賊が深い所に居るとき、海面近くまで浮き上らさせるために使用し、「山手」は烏賊が中層に居る時に主に使用され、「はねぐ」は烏賊が海面に浮き上った時に釣るために使用されていた。
いか針釣の図 明治14年 北海道漁具図説
いか釣針の図 明治14年 北海道漁具図説
船は初め磯船・持符がもっぱら使用されていたが、明治時代の中頃から越前方面から烏賊釣りに来た漁師によって川崎船が使用されるようになり、明治の末頃には、地元の漁師も次第に使用するようになっていた。
磯船・持符船では、普通二・三人が乗組み松明(たいまつ)(松の脂の多い処や葦・竹をたばねて火をつける)や後にはカーバイト・ランプなどを灯していた。後の時代の川崎船では、主として六・七人乗りが使用され、中には十二人位も乗れる大型の船も使用されており、烏賊漁ばかりでなく鱈漁業等にも使用されていた。
次に当時の烏賊漁の実態を記した新聞が残されているので参考資料として記すことにする。
明治二十四年一月十四日 函館新聞
漁季ハ夏秋二期に別ち例年土用入より始まり十一月下旬を終期とす二百十日前を夏柔魚と称し其後を秋柔魚と稱せり漁船は函館地方には、例年越前・越後・佐渡・能登地方より入稼するもの過半に達し是等は川崎船にて通常一艘に七・八人乘組むものと其他ハ悉く鮑・昆布等を採取するに用ふる磯船にして普通長さ三間幅三尺許のものを用ふ二人乃至三人乘組むものなり、漁具ハ「ヤマデ」・「トンボ」・一本針・「ハネグ」等を用ふ、「トンボ」・「ハネグ」の如きものは佐渡・越後地方より入稼するものより傳習したるものハ係るか故に入稼なき地方に於てハ多く「ヤマデ」一本針等を使用せり通常日沒頃に出船し夜半に歸る川崎船は磯船よりハ危険少く遙に沖に出ることを得るか故に一人にて一夜多きハ一千乃至二千尾を獲、磯船も時として川崎船に劣らさる事あれとも概するに五六百を普通とす然れとも此漁業は大に漁法の巧拙(こうせつ)あるのみならす群遊来去定まりなく同夜と雖も甲ハ多く漁するも乙は更に漁獲せさる事あり甲地に於て群来多きも乙地にハ絶て漁獲せさる事あり而して一ヶ月中漁獲多きは陰暦十日頃より十七八日頃即ち満月の前後にして一夜の中釣獲多きときハ潮流平穏にして海温高き時にありと云ふ、函館に於ける烏賊漁船ハ五百艘に達し船中にハ燈火を點して汽船の衝突を防けとも多く群集するか為通行の商船は苦情を訴ふるに至る其盛なること推知すへし。
製品ハ多く函館若くハ横浜に送り支那に輸出す、市場に吉岡もの又は江差物と称ふるもの是なり夏鯣(するめ)ハ初秋の鯣に比すれハ價格低く初秋の鯣ハ秋末の鯣よりハ廉(れん)なり其故は夏は天気炎蒸陰晴常なく柔魚腐敗し易きが為め乾燥十分ならざるのみならず柔魚小さく成熟せさるに依る秋に至れは之になし柔魚ハ概ね成熟して大く天候も亦冷涼となり腐敗の患少きに依るなり。