本州・北海道間の海運

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 明治二年七月に設置された開拓使は海運の発展を計画し、西洋型風帆船蒸気船等を設備し、北海道開拓の原動力とすべく着々とその充実を計り、明治四年には帆船十五隻、汽船十七隻を数えるに至った。開拓使の最初の計画では、東京函館間航路に重点が置かれていたが、航海不慣れと船舶の不備のため次第に函館・青森間にその主力が置かれるようになった。すなわち明治六年二月には函館から青森及び安渡(大湊)間の定期航路も開始され、旅客・貨物・郵便物の輸送が行われるようになったのである。
 開拓使は官営の海運を盛んにする一方、民営の海運発展にも力を惜しまなかった。明治三年には京都の木村万平に東京に回漕会社を設立させ、北海道貨物の移出入に当たらせ、更に輸送力増強のため明治六年一月には、東京の榎本六兵衛等十名の者に保任社を設立させ回漕会社を解散させた。
 この保任社も明治七年五月には解散となり、運漕社がこれに替わり、明治七年十一月に至り、更に三菱汽船会社が東京・函館間に定期航路を開設し、函館を中心に本道各地の航海を行うようになった。やがて運漕社はこれに太刀打ち出来なくなり、これより本道の海運は郵便汽船三菱会社の独占となっていったのである。

明治16年郵便汽船三菱会社船(明治16年時間表)