開拓使は官営の海運を盛んにする一方、民営の海運発展にも力を惜しまなかった。明治三年には京都の木村万平に東京に回漕会社を設立させ、北海道貨物の移出入に当たらせ、更に輸送力増強のため明治六年一月には、東京の榎本六兵衛等十名の者に保任社を設立させ回漕会社を解散させた。
この保任社も明治七年五月には解散となり、運漕社がこれに替わり、明治七年十一月に至り、更に三菱汽船会社が東京・函館間に定期航路を開設し、函館を中心に本道各地の航海を行うようになった。やがて運漕社はこれに太刀打ち出来なくなり、これより本道の海運は郵便汽船三菱会社の独占となっていったのである。
明治16年郵便汽船三菱会社船(明治16年時間表)