避難港建設の背景

858 ~ 860 / 1354ページ
 恵山沖は古くから漁族の豊富な海の宝庫であったため、村内はもとより道内船・本州船の多数集中する漁場であり、かつこの海域は本州と北海道諸港を結ぶ重要航路に位置しているため、船舶の航行数が非常に多い所であった。しかしこの海域は初夏の海霧・冬の風浪と海流など大へん自然条件のきびしい場所でもあり、遭難船の出やすい所でもあった。
 恵山沖はこのような悪条件の場所であったにもかかわらず付近には避難場所も無く、中型船では激浪をおかして函館・室蘭方面へ向かうものもあった。しかし小型船ではかなりの危険を伴い、特に戦後の物資不足のためのボロ漁船では、全損海難さえも珍しくはなかった。村民の話によると、沖に出漁中時化(しけ)にあい、エンジンストップの最悪の状態となったとき、古ロープのシーアンカーを流し、「どうか船体が保ちますように。」と祈りながら、船の舳先に立って波に向かって「去れ・去れ」と呼び、なんとか波風の合い間を見て岸に着けようとしたといわれている。
 このような状況のため椴法華に避難港建設を求める声は、村内ばかりでなく道内外の強い要望となり、関係町村が結束して陳情をくりかえし、昭和二十六年一月十九日政令第四号(港湾法施行令)を以て避難港の指定を受けた。つづいて三月十日には運輸省令第十三号によっても避難港としての指定を受け、昭和二十七年いよいよ着工の運びとなった。しかし予算的になかなか恵まれず予備調査の段階が長く続いた。この間においても恵山沖では多数の遭難船が出たため、本村を初めとする沿岸町村は更に強く避難港の早期完成を関係諸機関に陳情した。
 次に参考として海上保安部の資料により、恵山沖の遭難船の実態と椴法華村から提出された陳情書の一部を記す。
 
    海上保安部調査(昭和二十六年十月~昭和二十七年十月まで)
 ここに自力帰港と記されている十一隻のうち四百五十屯一隻、七十屯一隻で、あとの九隻は三十屯以下の小型船であり、自力帰港とはいうものの命からがら、やっと九死に一生を得たというのが実情であった。また僚船救助や航行船救助も文字どおり板子一枚下は地獄を経験させられた船ばかりであり、この他にも遭難として海上保安部に届け出されなかったものなど、実際には小事故が多数発生していたといわれている。
    避難港早期完成方陳情について
   本村避難港は昭和二十六年一月十九日政令第四号(港湾法施行令)を以て指定されその重要性により昨二十七年着工の運びとなりました。
  最近恵山沖合は魚族の最も豊富な我が国唯一の魚場として広く知られるに至ってからは特に恵山漁場に於て操業する本州及北海道の大小漁船の数が月毎に激増し年々多額の生産を揚げて居ります。又本村は重要な海運航路である室蘭港至青森港と室蘭港至函館港の中間にあり、而も恵山漁場を眼前に控えているので漁船及航行船舶に欠くべからさる船舶給水(上水道)設備も昭和二十五年十一月末に完成し寄港船の数が益々増加している現況にあります。然し乍ら当港は別葉写真の如き現況で極めて不完備の為操業或いは航行中荒天に襲はれた場合は避難場所を失いやむなく函館港或いは室蘭港に危険を冒かして避難しなければならず従って年間数百隻に及ぶ海難事故により幾多の尊い人命と多額の財産を犠牲にして居ります。
  係る事態から第一管区海上保安部においては、本道で最も海難の多い地帯として本村に人命救助艇二隻を一昨年十月一日全国第一位に配置して之が対策に腐心致して居りますが本村避難港の早期完成は別紙署名の如く関係者の等しく切望するところであり将来の我が国における漁業の発展と生産の増強上からも早期完成は洵に緊急を要するもの思考されますので特段の御配慮を懇請する次第であります。
   昭和二十八年五月
    北海道亀田郡椴法華村長松坂幹太郎

遭難後の状況