戦争は昭和二十年八月十五日を以って終ったが、人々の生活はこれからがどん底であり、以後は物資不足・食糧不足・住宅不足その他あらゆる物の不足、そして経済・社会・文化面での艱難(かんなん)困苦に耐え忍ばなければならない時代を迎えなければならなかった。
このような状勢の中で戦災で校舎を失った椴法華小学校はどのようにして、教育の場を復活させようとしていたのであろうか。
昭和二十年七月十五日の空襲により小学校を失った椴法華村は、早速小学校の再建を図ろうとしたのであるが、敗戦後の物不足、資金不足のため建設資材は容易に手に入りにくい状態に置かれていた。このため村では、当時元村燈台付近に在った旧日本軍の施設を教室として利用すべく、昭和二十一年五月六日当時札幌に駐留していた、アメリカ軍札幌司令部第七十四軍事政府の行政官に対して、無償解放を願い出た。この時の米軍の回答は現在文書として残されていないが、この願出は許可されたものらしく、後に元村に在った旧日本軍の監視所及び兵舎は、現在の小学校の校地内に移設され仮教室として使用された。(現存せず)なおこの建物は、間もなく教員住宅として使用されるようになったのであるが、その理由は、昭和二十一年後半に小学校の五教室を再建することが道庁より認められ、このため途中から教員住宅に切り替えられたためであるといわれている。