先にも記したように昭和二十年七月十五日の空襲により小学校の校舎は失われ、僅かに残された運動場や劇場・旧兵舎などによってようやく小学校の授業がなされていたが、文部省の命令により、昭和二十二年四月一日より六ヵ年間の義務教育制が実施されるようになり、国民学校は小学校と改称され、更に新制中学校(修業年限三ヵ年)が新設されることになった。
こうした状況の中で椴法華村でも小学校と新制中学校が併置で授業を開始することになったが、極端な教室・校具備品の不足と教員の不足に悩まされなければならなかった。
これで学校運営が果して出来るのであろうかとあやぶまれる中で、村民・生徒・教職員が一丸となって学校の維持によく努力し苦しみに耐え授業を行っていた。この頃の記録によると、現在の学校では考えも及ばないような三部授業や二部授業が行われていたことが知られる。
即ち一・二年生は八時から十時まで、三・四年生は十時から十二時三十分まで、五・六年生は十二時三十分から四時まで、というような三部授業(教員不足と教室不足のため実施)、又は一学級七十五名位の二部授業、或は一週間交代の二部授業、而も定員十四名の学校を七人の先生でまかなう授業をして、教育条件の全く整わない環境の中で先生も生徒も学習をしなければならなかった。
このような状態であったため、この教育問題が村議会の重要案件として審議され、村財政は逼迫の中であったが、多額の予算が振り向けられ、更に各関係機関に対する繰り返えしての陳情がなされることになった。(村予算の全てを計上しても校舎新築は不可能であった。)
一方村民は、教材・教具及び備品類が全く無いといってもよい学校のために、各戸がスルメを寄付しこの販売代金で学校の必需品を購入したり、物資不足で購入出来ないガラスなどは現物を寄付するなどして、学校教育に対する協力をおしまなかった。