椴法華国民学校の終戦

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終戦の頃の様子を当時の『学校日誌』や『椴法華小学校開校百周年記念誌』より抜粋要約することにする。
 
椴法華小学校開校百周年記念誌』金谷茂子
 『心の充実した日日』より要約
  今、思いおこしてみますと心に残ることは数多くございます。あの忌まわしい太平洋戦争の最中、昭和十九年(昭和二十年のあやまりと思われる)七月十四日空襲による機銃掃射、翌十五日の校舎焼失は、本当に身も凍る程の恐ろしさでした。お寺の沢の大木にしがみつき、どうしても手が離れなかったことが忘れられません。
  役場、兵舎跡、屋内運動場の仕切った教室、一学級七十五名の二部授業、十四名定員の教員が七名しかいなかった日々、そして、終戦の日に校長赴任。戦後の混乱と動揺の中でも、子どもたちは登校して来ました。先生方も食糧難に悩みながらも職員室は明るい雰囲気を保ち、子どもたちと親しく学習したことは、今、物質的にも恵まれ多数の先生方と共に勤務していることゝ比べて見ても、決して劣らない心の充実した日々であったと思います。
 
 八月十五日椴法華村を空襲した航空機は、ハルゼー海軍大将指揮下の空母から飛び立った艦上戦闘機の一群であり、この日十時頃から反復攻撃がなされ、ついに学校は体育館のみを辛じて残し、あとはすべて焼失する。使用された爆弾は大型爆弾と思われるもの一(弾痕より推定)、小型爆弾約十五箇、焼夷弾三箇ぐらいであったらしい。