椴法華中学校開校三十周年記念誌『三十周年記念に思う』舛森孝男(第一期生)より抜粋する。
六年生卒業旧中学校進学男子一名・女子三名、進学希望を持っていたものこの他に数人いたが毎日の食事にもこと欠くような状態で進学を断念。二十三年高等小学校卒業と同時に六・三制施行となり、進学手続きしたもの二十八名おりましたが終戦後浅く生活が困窮しており卒業したもの二十三名無事卒業はしたものの中三時代はあまり勉強せず時には男子七人(全員)午後から授業をさぼり山登りコマまわしなどし、担任の先生にしかられっぱなし。特に山田清一先生がこわく逃げ廻りました。高校進学一名あとは各々家事手伝い、その後同級生も約半数が村外に職を求めて出て行きましたが夫々事情があってのことです。(以下略)
昭和45年頃 椴法華中学校
椴法華中学校開校三十周年記念誌より
「中学校独立校舎の第一歩」 和高重義
創立三十周年おめでとうございます。
私が赴任しました時は独立校舎が落成した直後でしたので校舎は勿論のこと校具備品すべてが新しく職員も新たな気分で楽しく仕事ができました。然し校舎は林の中にほんの校舎を建てる部分だけ伐採して建てられたものですからグラウンドもなく僅かに玄関に出入りするだけの本当に木の間を縫って通るだけの細い道がつくられていただけでした。校舎も学級数だけの教室と職員室と宿直室があっただけですから体育館も職業科の教室もありませんでした。
それでも何よりも先ずグラウンドを作ることが先決問題でした。幸い敷地は十分用意してありましたので村当局や教育委員会にはかり又PTAの役員会や総会にもはかり幸い心よい協力が得られて部落毎の奉仕日がきめられ立木の伐採、木の根掘り、暗渠作り等殆ど二年がかりでして頂きまして第二年目の後半から不便ながら運動会や下海岸中学校の地区大会なども開催できるようになりました。又ささやかながら花壇や教材園などもできましたが、村の方々も家業で忙しい中を繰合せてよく協力してくれましたし、生徒も先ず自分達の遊び場を作らなければと放課後又時には体育や職業の時間の一部も裂いて生徒も教師も一緒になってよく働きました。又毎日の授業に必要な教具も不足でしたし屋外の設備などにも教育委員会の限られた予算では十分なことができなかったので度々部落の寄付もお願いして一つ一つ私達の考えを実現させて頂きました。(以下略)
椴法華中学校歴代学校長
歴 代 | 校 長 名 | 在 職 期 間 |
初 代 | 岩 橋 清 治 | 昭和二十二年六月一日より | 昭和二十四年五月十日まで |
二 代 | 山 田 清 一 | 昭和二十四年五月十日より | 昭和二十六年四月一日まで |
三 代 | 小 松 友太郎 | 昭和二十六年四月一日より | 昭和二十七年四月三十日まで |
四 代 | 和 高 重 義 | 昭和二十七年五月一日より | 昭和三十年五月三十一日まで |
五 代 | 工 藤 勇 造 | 昭和三十年六月一日より | 昭和三十五年三月三十一日まで |
六 代 | 山 崎 忍 | 昭和三十五年四月一日より | 昭和三十九年三月三十一日まで |
七 代 | 本 間 一 郎 | 昭和三十九年四月一日より | 昭和四十二年三月三十一日まで |
八 代 | 山 本 猛 | 昭和四十二年四月一日より | 昭和四十五年三月三十一日まで |
九 代 | 磯 谷 宏 | 昭和四十五年四月一日より | 昭和四十八年四月一日まで |
十 代 | 村 上 健 介 | 昭和四十八年五月一日より | 昭和五十一年三月三十一日まで |
十一代 | 沢 口 梅 蔵 | 昭和五十一年四月一日より | 昭和五十五年三月三十一日まで |
十二代 | 日 野 進 | 昭和五十五年四月一日より | 昭和五十九年三月三十一日まで |
十三代 | 松 村 泰 作 | 昭和五十九年四月一日より | 昭和六十三年三月三十一日まで |
十四代 | 梶 谷 康 夫 | 昭和六十三年四月一日より現在 |