昭和八年の恵山温泉

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 昭和八年の新聞より、恵山温泉の様子を記す。
 
   昭和八年 函館日日新聞
     霊峰・恵山へ
   恵山温泉前の事務所に少憩してから温泉に浸る。原田温泉は恵山温泉の附近から木管で引いて居り湯元は恵山温泉のそれと五間と離れてゐないのであるが前者は濁ってゐるのに反し後者は殆んど無色である。
   恵山の風雨に堪えること幾星霜、場末の木賃宿に見るやうな貧弱な木造であるが清純な山気に俗気を〓ひ霊泉に塵埃(ジンアイ)を拭ふて爽快の気に充ちてゐる。スリッパ代用の草履に云わせたらスリッパが俺の代用だと云ふだらうが--「山の温泉」らしいのんびりした感じが気に入った。
   浴室の入口に豆ランプがある文明に置き去られて此處だけは、未だ電燈がないのである。窓から覗(ノゾ)けば恵山の噴煙がゆらゆらと立ち上ってゐる。
 
   昭和八年七月 函館日日新聞
     細雨煙る惠山へ
         本社遊覧團登山を敢行
   惠山王福永本社椴法華取次所主、根田内泉吉三郎氏、下海岸の變りもので通ってゐる髯の玉谷勝氏が山案内人となって土高地へ行く、全山霞(カスミ)に包まれて墨絵のやうな十五町の割合に歩きよい道を鼻唄掛けで行く辻田温泉の發見は天保年間の由、最近は惠山熱のため殆と満員又満員で今日も椴法華漁業會の幹部が骨休めで追分を自慢の聲でうたって山の温泉気分を遣憾なく表現してゐる。
   ここで椴法華の岩崎書記の惠山禮讃を聞いた、此秋の紅葉の見頃には、帰途は是非椴法華廻りの旅行團をやって貰(モラ)はねは困るといふ、陳述(チンジュツ)を聞いて硫酸気の多分にある山の温泉に浸って下山(北條生)