明治時代の窮民救済

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 明治三年十一月、開拓使により、「漁場需用品貸与規則」が定められ、零細漁民の生活を救済するため、米・塩・日用品・その他を函館の原価で貸し付け、毎年十一月に収穫物で支払う方法がとられていた。椴法華村でもこの制度は利用されていたようである。
 しかし「漁場需用品貸与規則」が援助していたのは、労働できる人々に対する救済であり、もっと苦しい生活をしている病人、老齢者、浮浪者等にはなかなか救済の手はのべられていなかった。
 明治六年五月、開拓使によって、「賑恤(しんじゅつ)規則」が制定され、窮民救済事業が始められたのであるが、実態は極窮、失明などごく限られた人達に、ようやく生きれるというわずかの米、その他が支給されるだけだったようである。
 その後、明治九年九月に「開拓使管内窮民賑恤(しんじゅつ)規則」が制定され流行病、災害等についても救済できるように拡大され、その内容もまた以前に較べ数が増したのであるが、まだ絶対数は不足しており椴法華の困窮者にまで救済の手はとどかなかったようである。

[表](北海道藏)

  「明治十五年賑恤録」には当時の様子が次のように記されている。
 
 明治十五年賑恤録 函館県戸籍係
  亀田郡濟貧恤窮施行濟届
 
右ハ十五年三月ヨリ六月マデ濟貧恤窮施行濟分御届候也。
  明治十五年八月 亀田郡長廣田千秋
   函館縣令時任為基殿
 
 明治二十年五月、これまでより更に充実した社会事業制度として「貧窮患者施療規則」が制定され貧窮な患者に対し施療券が交付されることになった。このため貧窮な患者も公立病院や私立の開業医で治療を受けることが出来るようになったが、実際には医師の数がごく少数であったため、この恩恵を受けることが出来たのは、都市周辺部の居住者のみで、僻村の患者は診療すら受けることができない人が多かった。
 その後、明治三十二年「行旅病人及旅死人取扱法」が定められ、これに関する補助金が少額ではあるが交付されるようになった。
 このように年とともに社会事業は拡大されていったが、内容的には、ようやく社会事業の入口に着いたばかりという状況であった。すなわち国の子算は、富国強兵、殖産興業の方に費やされ、社会事業への配分は非常に少額であった。また北海道においても開発に予算の大部分が費やされたため、窮民救済、医療救済、その他の社会事業にまわす金額は非常に少なかった。この他、社会事業に対する意識の低さや医療機関その他社会事業関係施設の絶対数の不足などもあり、社会事業の恩恵を受けることが出来たのは、限られた少数の人達だけであった。
 椴法華村では、いつごろから社会事業の恩恵を受けることができるようになったのであろうか。古い資料が乏しく推定の域を出ないが明治の末の四十四年頃からのようである。
 すなわち、明治四十四年五月に設立された、恩賜財団「済生会」(明治天皇の下賜金、百五十万円と寄付金によってつくられた財団)が困窮医療必要者の救済のために実際に市町村に給付金を支給するようになってからと考えられる。