明治時代より社会福祉的な制度が存在し、種々活動されていたが、前にも記したようにその恩恵を受けることが出来たのは、大都市とその周辺のごく限られた人々であった。しかも救護活動も米などによる現物支給あるいは、税の軽減などであり、現金の支給などはごくまれにしかみられず、またその額も少額であった。
大正時代に入り、官側では、社会事業に対する行政制度の整備が実施されることになり中央では、大正六年内務省地方局の中に救護課が新設された。これに続き北海道でも、大正十一年一月内務部に救護課が新設され(大正九年社会課と改称)賑恤救済、行旅病人、行旅死亡者人取扱い、公益質屋、職業紹介等の仕事が担当されることになった。
こうした情勢下、社会事業をより具体的に推進させる手だてとして全国に方面委員制度が実施されることになり、大正十一年北海道でも六市に保導委員が任命され、それらに要する救助費は全て地方費から支出されることになった。その後大正十四年には、保導委員の設置権限は各市にゆだねられ道からの補助金に市費を加えて運用されるなどこの制度の充実がはかられた。
しかしこの制度は、財政力が弱く、医療機関から離れた、そして民間の社会福祉施設もないような町村については、適用されず、これらの町村からは、一日も早い福祉制度の充実が強く望まれていた。
ところで大正時代椴法華村における社会事業の実態はどのようなものであったろうか。資料は乏しいが、次に社会事業に関係する記録について記すことにする。
「大正八年椴法華村勢一班」の中に、金額は配分されていないが、救恤の項があり、さらにその中が貧民救助、行旅死人、精神病者の欄に分けられている。(記入されなかった理由は不詳)このことより村内の困窮者の救済、行旅死人の後始末、精神病者等の救済活動を村費で実施しようとしていた形跡があったことが知られる。
また大正八年椴法華村勢一班では、この年の済生会救療費総額六十六円、新救療者一名と記され、大正九年の村長の引継書には、済生会、救療費、貧困者にして病気の者を援助すると説明し、大正九年七月から大正十年六月までの済生会の配当金(交付金)は十円であるが、これではとても不足なので増額要求をするように後任の村長に〓し送っている。
これらのことより、椴法華村では、村内の生活困窮者と医療救済の必要者に対して大正時代に入ってようやく村と済生会によって、援助の手がさしのべられていることがわかる。
その後、大正十二年六月庁令により、「貧困者救療規程」が発布され、郡部町村の救療は地方費でまかなわれることになり、恩賜財団済生会の援助は打ち切られることになった。しかし、地方費による救療は予算額がはなはだ少額であったため、昭和六年には、再度済生会にこの事業をまかせ、従来の地方費を全額済生会に補助し、済生会の費用と合わせて運用されるようになった。