方面委員の前身は、大正十一年道によって任命配置されていた保導委員であり、地方費を使い救恤の仕事を中心に活躍していたが、この制度は、町村には適用されていなかった。このため町村より一日も早くこの制度が町村にまで普及されるように望まれていた。
こうした背景の中で、昭和七年一月一日から、より充実した福祉を求め国によって、「救護法」が実施されることになったが、その条文の中に「市町村ニ救護事務ノ為委員ヲ設置スルコトヲ得、委員ハ名誉職トシ救護事務ニ関シ市町村長ヲ補助ス」と定められており、救護事務のための委員を町村単位まで置くように求められた。かくて道はこれに備えるべく、昭和六年十二月「北海道方面委員規程」を制定し、昭和七年より方面委員の任命に努めるようになり徐々にその数を増していった。
その後更にこの制度の充実が計られ、国によって昭和十一年十一月勅令により「方面委員令」が公布され、これを受けて道により昭和十二年一月「方面委員設置規程」が設けられた。
このような動きの中で、ついに椴法華村にも方面委員が置かれることになり、昭和十二年一月今岡連藏が任命されている。
この時の方面委員の主な仕事は、村長と連絡をとりつつ村内の生活状態を調査し、援助が必要な住民が生じた場合は直ちに救済活動に努め、これらの人々が自立向上できるように指導と援助を与えることであった。椴法華村ではちょうどこの頃、村内が不景気なこともあり、一村一名であった今岡方面委員は右に左にたいへん忙しかったといわれている。
なおこのころの扶助は、救護法、母子保護法、軍事扶助法、医療保護法、などに基づいて実施されていた。
その後、方面委員は、戦争の激化にともない本来の目的の他に、「生活刷新実践要綱」「戦時生活確立要綱」「銃後国民生活強化要綱」等に基づき、戦時体制下、村民生活改善を目標とする指導的役割を受け持たされるようになった。
このような事情で方面委員は戦時下に於いて国の要求により献身的かつ積極的な活動を求められていたのであるが、やがて昭和二十年八月終戦となり一切の公的活動は停止されることになった。
しかし方面委員としての仕事は、停止されたが真の意味での社会福祉活動はこれで終りではなく、新たにスタートされようとしている所であった。
すなわち、海外からの引揚者、母子世帯、戦災者、復員軍人、その他戦争による生活困窮者、合わせて食料・物資の欠乏等により生活援助を必要とする人々が急激に増加したからである。