昭和十五・六年頃から戦争の影響により医薬品は欠乏のきざしを見せはじめていたが、昭和十七年には、はっきりと不足が目立ち、都市の人々は、さし当たって必要でもない薬品や包帯・ガーゼの類まで買いだめするようになり、中には普通の人が購入することのない注射用のアンプル液まで買い求められ、たちまち薬品は薬屋の店頭から消えてしまうような有様となった。このため椴法華村に入ってくる薬品の量は極端に減少し、しかも現金ではなく、水産物との物々交換によって手に入れられたといわれている。こうした中で村民は昔から伝わる方法で、草木類の葉・実・根等を乾燥して、あるいは酒に漬けて薬品として保存したり、マムシ・八つ目うなぎ・鯉・ミミズ・ナメクジ・馬糞等、薬品として利用できるものを使用するようになっていった。
この他戦争が次第に激しくなり本土決戦が話題になった昭和十八年ごろから、部落の班毎に救急医学の講習会が実施され、包帯の巻き方・簡単な薬品の使い方、怪我の応急処置方法等の知識を深めるようになった。
このような講習会がよく実施されたが、村民は実際にそのような場面に遭遇することはないだろうと考えている者が大部分であった。
昭和十九年五月八日には、宮崎丸が椴法華沖で米潜水艦の攻撃により沈没、この時死者・負傷者が多数あり、葛西医師を先頭に、男女青年団・警防団・警察等は、講習会のやり方を思い出しながら、真剣に救助活動に従事したといわれている(この時の事は軍事機密として取扱われ、死者・負傷者数などについては明らかでない。)
・昭和十九年九月二十一日、当時本村でただ一ヵ所となっていた葛西医院から火災発生し焼失する。このため貴重な医薬品を失い翌日からの診療活動が不能となった。
・昭和二十年七月十五日、椴法華村米軍艦載機の攻撃を受け、小学校・恵山岬燈台焼失、役場中破、死者四名・負傷者数名の戦災を被る。この時村内に医師は誰れもおらず、元軍隊で衛生兵をしていた村民を中心にして、重傷者である村長の銃弾の摘出手術を実施して、ようやく一命をとりとめるというような医療体制であった。