前にも記したように、下海岸地域の各村では、昭和三十年代の末頃より、屎尿は肥料として利用されなくなったが、屎尿処理・ゴミ処理施設がほとんどないため保健衛生上大変心配されるような状況となっていた。
しかし一町村では、これらの処理施設を造ることは予算的にむずかしい状態であり、いくつかの町村が共同で施設を建設する案などが検討されるようになったが、具体化できないでいた。
その後昭和四十年七月、赤痢が出稼帰村者により持ち込まれ、九名の真症患者が発見された、すなわち心配が現実となったわけである。当時の役場資料によれば、赤痢発生の様子が次のように記されている。
(昭和四十年七月十九日発生、真症赤痢防疫対策関係書類より抜粋)
七月二十日、小中学校へ手洗いの励行、矢尻川での水遊び禁止について指導方依頼、有線放送にて、銚子、浜町住民へ、矢尻川において水泳、食器洗い、洗濯をしないよう呼びかける。この日、同地域の小中学校三名の通学停止を命じる。
七月二十二日、有線放送にて当該地域への立入禁止と矢尻川流域住民に対し水泳、川水の使用禁止を通告する。
以後経過良好につき、八月九日、隔離を解除する。
この集団赤痢の発生以後、椴法華村では、以前より切実に屎尿及びごみ処理について考えられるようになったが、よいプランはなかなか生まれず、とりあえず汚物を海中に投棄しないようによびかけ、ごみは焼却するようになった。また屎尿の一部は山間部の谷間(私有地)に集積されたりしたこともあった。