明治七年の惠山噴火

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 この事について『明治七年申奏録上』(北海道蔵)は次のように記している。
 
    渡嶋國惠山噴火ノ義御届
   當使管下渡嶋茅部郡惠山去月八日午後六時頃舊噴火口轟鳴発〓烈敷殆ント炸裂ノ形状ニ相見得邑民危懼(きく)罷在候處翌九日午前二時頃ヨリ〓威追々減銷候ニ付何レモ安堵致居候段、函館支廳ヨリ申来候條此段御届申上候也。
   明治七年七月八日
 
 明治七年六月八日、午後六時頃突然恵山の旧噴火口が大音響とともにはげしく烟を発し、今にも爆発しそうな状態となり村民はあやぶみ恐れていたが、六月九日の午前二時頃から追々静かになっていき村民はようやく安堵した。と『明治七年申奏録上』は記しているが、この時の村民の胸中はいかばかりであったろうか。老人は弘化三年(一八四六)の山津波を思い出し、裏山の山つきを恐れ逃げ場所を考え、若者たちは老人婦女子を助け、いち早く避難をはじめていたであろう。
 なお村の古老達はこの時の事を「前山の釜が壊れるといって逃げ出した」と云い伝えられていると故谷口帰道は話していた。

明治7年6月8日 開拓使日誌