明治十九年九月二十七日、越後より函館へ向け航行中遭難した亀甲丸この日、静内郡門別村沖で救助されるが当時の『函館新聞』はこの事について次のように記している。
明治十九年十月六日 函館新聞
○難船救助
札幌本廳管下静内郡捫別村にて去月(あとげつ)廿七日午後一時頃同地海岸四里程を去る沖合に黒きものゝ漂流せるを認め人々とりどりのうハさ最中同村居住の旅籠屋藤波佐右衛門氏ハ正しく前日(まへび)の暴風(あらし)にて難破せし船舶なるべしと認め雇人に指圖して持符船にて救助に赴きしがこの日も前日の風波猶治まらず辛くして其黒きものを見當に漕付けたり然るに同村字ラソペの高橋万太郎氏も同じく救助として出船しこの両船やがて近付くと果して右は帆柱を切〓し今や沈ん斗(ばか)りなる難破船なりければ取りあへず乘組の船頭等五人を救助船へうつし彼是(あれこれ)手間(てま)とり午後七時に至り漸々(やうやう)助けかへりたり。右難破船ハ青森縣石濱田中勘太郎所有船にて亀甲(きっこう)丸と稱し船頭ハ同縣下北郡田中岩次郎外乘組四人なり九月中越后にて米燒酎等をつみ入れ凾館へ向け航海の際暴風に逢ひ破船、積荷ハ殘らず捨て飯米も乏しく飮水ハ一滴もなく最早魚腹に葬らるるものと覺悟せしが幸ひに九死を出て一生を拾ひたりとてこと/\く其両人の救助(すくひ)と謝したりといへり。
又同船ハ引續く高波のため陸へ引きあげる間のなきうち再び何へか漂ひ去りたり尤(もっと)も遭難の船頭外四人は陸地を歸國する見込なりといふ。