明治四十一年三月二十四日
○陸奥丸の沈没
滊船秀吉丸と衝突
乗員二百人の溺死
曰く大疑獄、曰く滊車轉覆、曰く夫殺し近頃(ちかごろ)頻々(ひんぴん)として災禍(さいくわ)椿事(ちんじ)を報ずるに忙(いそが)はしき記者は更らに又郵船會社滊船陸奥丸(九一五噸)沈沒の大椿事を報せさるべからざるの不幸を有したるに至れり。陸奥丸は一昨日午後六時當港出港室蘭に向け航行したるものなるか、二十三日午前三十分恵山岬なる頭椴法華(ママ)村沖合約二哩深さ五百四尺の所に於北海道炭鑛會社滊船秀吉丸(六四六噸)と衝突し僅(きん)々三十分以内にして悲絶慘絶の光景を以て沈沒し乘客二百二十九の中九分通り溺死せりとの悲報今朝室蘭より當地郵船出張所及郵便局に達したるより(以下略)
明治四十一年三月二十四日
▲船客と郵便物
前段(ぜんだん)に記(しる)す如く船客は二百二十八名の内其の九分通りは無慘(むざん)にも溺死を遂けたる次第なるが仝船船客中一二等は(住所氏名省略)の六名にして三等船客は百八名外に移住民ハ百二十四名都合二百二十九名なるが移住民だけは百二十四名全部溺死せることハたしかなりといふ。又搭載(とうさい)郵便物の中二百五十個は沈沒し残部八個は郵便係員二名と共に秀吉丸に収容頭椴法華村(とどほっけむら)(ママ)に避難せるが長久丸は急を聞きて現塲に急航し救助に盡力(じんりょく)せる由。
明治四十一年三月二十四日
陸奥丸の沈沒(この部分原文にタイトルなし)
▲船歴、仝船の船歴を聞に左の如し。千八百八十四年七月蘇國ダンバトヲンリ・ムーレー會社の製造船体機関とも、▲船質は鉄、推進器スノーナ、▲總噸數九一四、▲登簿噸數五七六、▲長さ一九五・〇〇、▲幅二九・五〇、▲深さ一九・一四、▲馬力二五七・三二、▲甲板下八七方、▲気壓(きあつ)四七・一八
明治四十一年三月二十六日
○陸奥丸沈沒 特報
於肥後丸船中 特派員
慘憺たる沈沒の光景-河内船長(かわうちせんちょう)の壯烈(そうれつ)なる最後(さいご)-秀吉丸の不實(ふじつ)-土井機関長の激怒(げきど)-丹羽事務員の勇奮-月下の悲劇
(中略)
▲轟然(ごうぜん)たる衝突 遭難地は恵山岬燈臺より約二哩南北なる椴法華村の沖合約二哩半深さ五百四尺の海上なるか初め陸奥丸ハ郵便物搭載の都合に依リ予定より遅るること三十分にして午后六時半(廿二日)青森を出帆し室蘭に直行したるものなるが翌二十三日午前一時半頃に至り右舷前方に當りて一個の船影を認めたり、之れは今回の大慘事演出したる相手船秀吉丸にして恰も船橋に在りたる河内船長は厳重なる注意を以って船体を操縦し居りしか該秀吉丸は舷燈を点せず單に檣燈(しょうとう)を掲げたるのみにて益々陸奧丸に接近し來るより河内船長ハ衝突を恐れて船体を左に避けつつ進行する内秀吉丸も又た其の方向に避けんとして右廻しアワヤと見る間(ま)に秀吉丸の舳角(じくかく)ハ陸奥丸の艫部(ろぶ)左舷一二等室の中間に當り轟然たる大音響を以て衝突し其の舳角は陸奥丸の右舷に四尺程も喰ひ込みて一大破孔を生ぜしめ漸次浸水するに至れり。
▲沈没の慘状 午前二時船内熟睡(じゅくすい)の折から轟然たる音響を以って衝突したることなれば船客船員一同其の不意に驚き衝突か坐礁か暫(しばら)く耳を峙(そばだ)つるうち衝突々々の叫聲(きゅうせい)頻(しき)りに起こりて乗客を初め船員一同甲板に飛び出し甲板はさながら人の林を築きて周章狼狽(ろうばい)を極むるに至れり此の時船橋を飛下りたる河内船長は秀吉丸の深く舳角を喰ひ込み居る所に至りて部下の船員をして我が船客を秀吉丸に乗越えしむべきことを命じ再び船橋に上りて奮然と指揮を司(つかさど)りたるも大勢二百に餘る船客はタダ狂叫(けうきう)騒動するのみにて度を失ひ殆んとなす所を知らず此時に丹羽事務員は他の二三船員と協力し奮然として船客を秀吉丸に乗移らしむることに盡力し一方丹羽事務員自身秀吉丸に飛び移り急據の場合秀吉丸の船長を責めて現場のまま可成長く両船を離さざること及び短艇を卸ろして船客救助に盡力(じんりょく)することを請求し引返して再び陸奥丸に飛び移り尚ほも船客を移すに盡力中秀吉丸は無情にも直ちに陸奥丸を引離れんとするの模様見えたるにより丹羽事務員は後始末の責(せめ)もあり旁々躊躇(ちゅうちょ)すべき場合にあらずと再び秀吉丸に飛越え一命を助りたいといふか斯の如くして秀吉丸の陸奥丸に喰ひ付き居ること僅かに十分に過ぎず從って此の時間を以って秀吉丸に移乗したるもの一等船客吉川三次郎以下十五六名に過ざりしといふ然して一旦秀吉丸の引離るるや陸奥丸の大破孔より浸水瀑(たき)の流る如く注入して漸次艫部より沈下し初め秀吉丸に引離れられ折角の頼みの綱も切れたる絶望の群集は今度は先を争って上から舳(へさき)の方へ這ひ上り或は落下する錨其他の重器物に觸れて五体微塵と摧けて慘死せるもあり、或は絶望の餘り我れと我が身を海中に投ずるもあり、修羅惨擔(しゅらさんたん)の状實(じょじつ)に目も當てられさりしといふ然して斯の如き場合に處しても河内船長は斷然として船橋を去らず渾身の精力を絞って大聲船員を指揮し先三隻の短艇を卸して及ぶだけ船客を収容して去らしめ、自分ハ船と共に運命を同じうするの覺悟雄々しく船体は八舳を上に將さに三十度以上の傾斜をなすや今は是れまでなりとて自己の身体を船橋に縛り付たる振舞實に悲壮を極たるものなりしといふうえにて秀吉丸の引離れたる後ち約二十分浸水漸(ようや)く充滿し傾斜益々加ハりて船体恰(あたか)も五十度以上の角をなすや爰に俄然直立して急轉沈下アハレ多年の間靑森湾に親しみたる陸奥丸も旣に海上のものにあらずなりぬ然(しか)して此の時舳(へさき)甲板に蝟集(いしゅう)しありし群集は手荷物重器物等と共に船体の俄然直立せる方に海中に振り飛ばされ叫喚啼號(きゅうかんていごう)する有様は折も折陰暦廿日寒天の月に照らされて月下波上の大悲劇を現出し其の悽惨(せいさん)實に慄然たるものなりしという。陸奥丸は斯(か)の如き慘状裡に沈沒し終はりぬ二百餘名の魂魄(こんぱく)は浮ぶ所もなくして漂へるなり。