[明治の戸口]

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 郷土の戸口が明確な数字でとらえられるようになるのは、明治になり開拓使が置かれて、いろいろの制度改革がすすめられるようになってからである。なかでも、明治四年の上磯茅部二郡二十九ケ邨一面表は、官員の事務便覧に供したものか、村々を一覧できるものである。
 開拓使ほか、いろいろ時々の調査資料と、戸籍法に基づく集計などをもとに数字の整理をしたものと思われる。明治一五年の茅部山越人口調は、統一された一五年分の統計として信頼度の高い数値と思われる。
 冒頭に記したように、戸口の変遷は年々歳々、その村その町の繁栄・発展・変動などが、戸数・人口の数字に凝縮されたものとみて大きな誤りはないと思われる。
 南茅部の戸口の数字の移り変わりのなかに、郷土の産業・経済・福祉の最も基礎的な数値が潜んでいる。

茅部・山越人口調(戸数は本籍の数・人口は本籍・寄留の合計)北海道所蔵