大謀網

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 大謀網を生み出した三陸系の大網は、はじめ牡鹿(おじか)半島を中心に発達したもので、囲網のひと隅に底網をとりつけたもので、のちの大謀網の原型をつくり母胎となったものである。
 この地方で嘉承年間(一一〇六~〇八)にこの網が試みられたとなっているが、信用され難いものがある。
 江戸時代のはじめ頃からという説が有力とされている。江戸時代のおわりには、牡鹿半島で三〇あまりの網がしきこまれていたといわれる。
 文政(一八一八~三〇)年間、陸中の人田代角左衛門によって大きく改良された。
 身網(みあみ)を楕円形に張り、全部底をつけ、身網の口の両側にかこい網がつき、かこい網の一方の端に垣網をつけた型で、魚捕の部分に麻の織網を使うか、大部分は藁網であった。
 身網の一点に櫓をたてて魚群の見守り、魚群の流れが網にはいったのを見とどけると陸(おか)の網小屋に知らせる。合図をみると、網番屋の網子は急いで船を漕ぎ出していく。身網の口の引立網をあげて網から魚群の出るのをふせぐ。魚捕網をくりあげて魚をとる。
 この網型が改良されて、大謀網といわれる大型の定置網漁業にすすんでいく。大網を引き上げるには、船四隻、網子三〇人ほどが必要で操業されるのを通常の規模とされた。
 越中・能登は牡鹿・三陸とともに大型定置のあることで知られている。能登半島の東岸、七尾湾の入口から南にかけてブリの台網がおこなわれ、北側はタラの台網がおこなわれるという。能登ではともに冬の漁業で、資本家によって経営されるという。