旋網の規模

976 ~ 978 / 1210ページ
 臼尻村は、網の全長約二〇〇間で、魚捕高三〇間、袖高最高三六間半、左右二片に分け、一方の魚捕を三車袖で一七車に分け、魚捕中央の二車は、三号綿糸一六節百掛で、長さ七尋二尺切、三六尺である。三車目は三七反、袖は二号綿糸一六節百目掛で、長さ七尋二尺切のもの三七反、合より漸次増して「吹出し」のところで四三反、手元端三五反。
 袖全部の裾に一〇号綿糸二寸目のものを縦目に長さ三尺五寸を入れる。
 縮結は魚捕内一割八分、袖は三割から三割八分ぐらいとする。裾環は三間に一本置に付ける。沈子(鉛)は全体で三六貫となる。浮子(あば)は桐製で、長さ八寸、幅四寸、厚さ二寸五分のものを三寸五分から四寸間隔で付ける。
 本網は七分ぐらいで夜間に使用する。
 昭和一〇年、安浦の浜に鰮漁業のための大型の動力が利用された。臼尻の横澗には、昭和一〇年から鰮を汲み揚げる大規模なセントルの桟橋が三か所に築設された。何十基も大きな釜が敷設されて、鰮粕を製造する煙が立ち昇った。
 尾札部の八木浜(今のくろわし浜)にも、日本油脂(株)が大規模なセントルの桟橋を築設して鰮粕加工を経営した。昭和会社の粕工場は、青年たちの格好の野球グランドになった。昭和一四、五年ごろから鰮の漁況も減少しはじめる。
 臼尻村には鰮旋網の業者が多く、盛況を極めた。この沿岸の景気に、町外(函館・東北地方)からの入稼ぎが急増した。漁夫のほか商家なども来住して、菓子店や果実店も開店した。
 旅館が新築されるなど、昭和一〇年代まで好景気にわいた。
 鰮漁に入稼した人たちで定住した人も多い。

鰮沖揚作業の景(安田範彦所蔵)


板木(安浦)鰛沖揚作業の景(昭和10年頃)


臼尻 村井漁場鰛セントル


臼尻 村井漁場 鰛粕製造の景況(村井治三郎 所蔵)