稲作の試み

30 ~ 31 / 1034ページ
尾札部の飯田屋で八木沢に水田を試みた。今の尾札部中学校の前に大きな沼があった。古川といい、むかし八木川が黒鷲の方へ流れていたときの水脈が堰止められた沼である。この近くに水をひいて水稲を試みた。
 また、飯田屋の自宅の裏にも試みたという。いずれも生育はよいが穂をつけない(実のらない)で終わったという。
 明治三〇年代である。安浦の〓蛯谷金作家で裏山から水をひいて、安浦字二七三-三のところに一畝ばかりの水田をつくり、水稲を試作したという。
 稲はみのったが雀が多く、二~三年で中止したそうである。雀の害だけでなく、やはり気温と季節風の影響があったものと思われる。
 のち昭和二二、三年ごろ、臼尻の奥寺金太郎(明治二四生)が、大舟川上流で稲作・水田づくりをした。
 奥寺金太郎は数年にわたる桂岱・紅葉山の気象のデータを調べてもらい、自宅裏山の畑地よりも大舟川上流、上の湯付近が水稲に適地であるとして、道有林地(三反歩)の貸与を願い、払下げをうけた。家内総出で笹竹を刈り、三〇~五〇センチメートルの深い竹の根を掘りおこしていった。
 一日に四~五坪ほどを開墾して水田づくりをした。
 経験も乏しく、一枚一枚の田圃の落差が大きいため水勢がつよく、灌漑の水温も高くならず、稲丈はのびたがやはり気温の低いことなどからみのりはよくなかった。しかし、少ないとはいえ稲の収穫は実現したし、奥寺家では自作の臼尻米(大舟米)を炊いて食べた。(奥寺栄三談)