漁家の農村地主化

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豊崎の〓二本柳文彦(昭和五生)家に明治のはじめに発行された地券が百二枚所蔵されている。百枚余の地券が一括保存されている例は極めて稀で、史料としても貴重なものである。
 〓家所蔵の百枚余の地券のうち自家関係の数枚を除いて、他の大半は本家にあたる〓二本柳庄三郎家の所有にかかわる地券である。〓家当主文彦の先代文平(明治二一生)は昭和のはじめ本家の資産整理に当たったとき、整理済みの書類のうちから、これら明治期発行の地券を一括して保存しておいたものである。
 〓二本柳庄三郎の地券の内訳は、
  開拓使発行  明治一二年から一四年までのもの 六三枚
  函館県発行  明治一五年から一八年までのもの 二二枚
  北海道庁発行 明治一九年から二一年までのもの 一七枚
である。このうち大野平野四か村の農地(田・畑)や宅地の地券が六五枚ある。
この地券は明治・大正にかけて、漁業家二本柳庄三郎が大野村に農地をもつ地主として、多くの小作をもっていたことを物語る史料でもある。
 大野村周辺における二本柳庄三郎の農地所有の実態は、現存する地券以外にも相当数の面積を所有していたものと思われる。しかし、地券以外に手がかりがないので、二本柳家の農村地主としての過程をこの地券のみで分析すると、そのはじめは明治一七年五月一〇日、市渡村A家とB家の地券の書替(裏書き)にはじまっている。
 その年、同じく市渡村C家が七月、九月にはD家と四戸の農家が二本柳庄三郎に農地を売り渡している。
 翌一八年、本郷村のE家とF家の農地を買収、明治一九年には市渡村G家、H家と自からも市渡に畑三筆六町五反余と大野村に水田五反歩一筆の地券を取得して小作をおき、農村地主としての基盤を築いている。農村の凶作がつづいたのか、同年J家が地券を渡している。二〇年には五件の田畑を買受け、さらに二一年には一七件の田畑を手中にした。地券は制度の改革のため、記録的にはここまでで考察は終わることになる。
 大野町史によれば、明治三九年当時、大野村において二本柳庄三郎の所有していた水田は三五町五反一畝六歩で、畑は九町七反三畝二〇歩と記されている。
 これは、大野村内外あわせた水田の地主の順位において二本柳庄三郎は第六位、畑地では第一四位となっている。
 明治一七年と同二二年の大野村近郷が大凶作のとき、農家の困窮はなはだしく、函館商人ら村外の金主に農地を売渡すものが続出したといわれている。
 この農地の売渡には「買戻約款付小作法」が適用されて、借入金を返済すると買い戻しができるとされていたが、後日、自力で買い戻した農家はごく限られた数で、多くは買い戻しができないまま小作人となり、明治・大正・昭和へと村外の地主の勢力はその後もながく続き、戦後の農地改革による不在地主から自作農への解放をまたなければならなかったという。
 〓二本柳家は、漁業経営において成功した段階で、漁業で得た収益を再び同じ漁業の漁場拡大に投資するだけでなく、その余力を村内の山林育成につとめ、さらに農村地主としての経営へと復線化を強力にすすめた。この過程は、沿岸漁業家の栄枯盛衰のはげしいなかで、より確実な農村型地主として、潜在的な資本の蓄積をすすめたところに、二本柳庄三郎の経営の特色があった。同時代、臼尻村を代表する漁業家て小川家も、また、尾札部村の飯田屋も同じように町外農村に農地をもっていたが、その規模と経営は二本柳の規模には至らなかったようである。

(表)臼尻村 〓 二本柳庄三郎家 明治・大正期 大野村・本郷村・市渡村所有田畑反別(1)


(表)臼尻村 〓 二本柳庄三郎家 明治・大正期 大野村・本郷村・市渡村所有田畑反別(2)


(表)臼尻村 〓 二本柳庄三郎家 明治・大正期 大野村・本郷村・市渡村所有田畑反別(3)
三九町七反二畝〇四歩 布川 作治郎 御改


(表)昭和28年 主要農作物作付面積及実収高
臼尻村  昭和30「村案内」
尾札部村 昭和29「村勢要覧」