大船農耕地

75 ~ 77 / 1034ページ
大正一二年の秋、万畳敷から三キロメートル下がった泣面山の東山麓、白井川・ガロー川とよばれる農耕地へ二〇戸再入植した。
 白井川農耕地とも呼ばれたこの新しい農耕地は、現在の椴松林のある一六林班のところである。大舟川の支流白井川を遡ってムジナ崖を境に二つの地区に分かれ、上段(うわだん)と下段(しただん)と呼ばれた。
 農地に適する土地ということだが、万畳敷のように樹木を伐採した跡地ではなく、ブナ・ナラの樹木が繁った山林であったから、拂下げは格安であったが開墾は多くの労力が費された。
 はじめは、ブナやナラの樹木を伐り倒し薪を作り、炭を焼いて漁村の部落に販売して生活や開拓の資金にした。農地用の樹木がなくなると地続きの官林地の雑木林の払下げをうけて、炭焼きをつづけた。
 開拓は順調にすすみ、四年目にはどこの家でも持ち面積の殆どの開墾が終わり、畑作物もよくみのり生活もかなり安定した。
 昭和三年三月、農業の振興のために農耕地だけの第一回立毛品評会を開催して好評を博した。翌昭和四年四月、第二回を開催した時には、湯川森林事務所から所長や監守吏員を招待し、また、地元臼尻村長、村会議員ら有志も出席した。
 農耕地の人たちは団結が堅く、村政への関心も高かった。
 大正一五年、湯川への山間の道路も開削され、生活は次第に便利になっていった。
 昭和三年の村会議員の選挙には農耕地の代表を村会に送り出すことになり、田代幸七(明治一〇生)は上位当選して臼尻村会議員となった。
 この年、農耕地から厳島神社に鳥居を寄進した記録がある。農耕地の人びとはようやく将来への希望をもち、この地を永住の地と心にきめ、茅ぶきの家から新しい住家を建てる家もふえてきた。
 昭和四年六月一七日、駒ケ岳の大噴火は一瞬にして希望の開拓地を荒廃の野に埋めつくしてしまった。
 農耕地の知人を訪ねて山仕事に入稼ぎしていて、二、三年で国許から妻子を呼び寄せて農耕地に永住をきめた人も多くなった。
  伊藤円次郎  八戸春松  西村和助  井沢佐和士  貝田佐次  植田佐平

大船青年会 昭和3年 旭川 渡辺幸太所蔵


第2回大船農耕地立毛品評会 旭川 渡辺幸太所蔵


大船農耕地と入植者氏名 田代久三記録