〔植林〕

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 当時、和人の来住戸数が増えるにつれ、燃料として手近に繁茂する天然の枝木をとり、家屋の建材、造船の材料に許を得て、次第に裏山の自然林が伐られていった。
 幕府は再直轄にあたって、みだりに山林の樹々を伐木用材にすることを禁じ、用材のため伐木するときは、代替えとして植樹をすることを約してこれを許した。
 漁家では伐採のあとに野菜畑をつくって、自給自足をするようになり、原始からの山林は海岸から後退し始めた。
 安政五年(一八五八)、小川屋幸吉(天明六生・一七八六)が郷里の南部から杉苗・種をとり寄せて苗圃をつくり、杉苗を育てた。官の許しを得てこれを臼尻の裏山に植付けた。そして村内の家々にも植林をすすめた。
 以来、郷土の愛林育樹の営みは徐々に増加した。箱館奉行の奨励があり、明治の初め開拓使による指導で植林をする者には官の補助があり、土地が割渡(わりわた)された。以来、臼尻村は林業思想が普及した。
 明治に入って開拓使はいっそう森林資源の確保を重視し、厳しい規則をもってこれを住民に励行させた。