函館道路

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大正五、六年ごろから万畳敷に開拓農家が入ると、赤川から函館への道路の必要性が高まった。
 農耕地の人びとが作物を函館市街の市場に出荷するためには、昔ながらの不便な山道を、馬車の通行できる道路に開削したいという願いだった。
 大正一〇年、人々の願いがかなって赤川から万畳敷まで、幅九尺、延長四里の道路が開鑿された。工事の人夫は、赤川の農家の人びととともに、万畳敷農耕地の人たちが多く参加した。道路の工事は一二月七日、ようやく完成した。
 この道路を農耕地の人々は函館道路とよんだ。(「万畳敷開拓」の項 参照=田代久三 資料協力)
 大正一〇年、万畳敷と赤川を結ぶ道路が大改修された頃、臼尻から赤川に通じる大船山道の開削の運動が、臼尻村会議員吉田梅太郎らによって積極的に進められた。
 川汲山道の自動車道路開削工事が着手した前後のことである。
 川汲山道の自動車道路開通によって、大船山道の開削は遠退くが、昭和一〇年前後に再燃して戦争期に入る。
 昭和七年、農漁山村救済土木事業として、大舟川橋より上の湯まで二、六四〇メートル赤川線改良工事が施行される。自動車道が上の湯まで竣工した。