臼尻港修築計画

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亀田半島の臼尻湾は、江戸時代から道内、道外航海する船舶関係者や漁業者には、天然の良港としてよく知られていた。とくに函館・室蘭航路の海運業者にとっては、風波のときの唯一の避難港として大事な位置を占めていた。明治三七、八年の日露戦争によって、北方の海運は軍事上、北洋漁業開発上重要さが増大していた。
 地元臼尻村からの永年にわたる陸路開削の請願とあわせて、強く要望されていた港湾の修築についても、明治四〇年代にはいると国の政策も一躍、沿岸漁業の振興と海難救済の諸策にとりくむ気運となり、道庁も拓殖計画に組み入れるため、いよいよ臼尻湾の現地調査に専門技師を派遣した。
 港湾修築の基礎調査のひとつである臼尻湾の水位の測定が実施されたのは明治四五年六月七日と記されている。
 地元漁民の関心を集めながら、ときの臼尻村長森谷秀一郎や臼尻漁業組合長東出源蔵ほか役員、重立、村会議員、部落総代らによる協議が重ねられて、臼尻湾の立地条件をもとに臼尻港の構想が練られた。
 横澗といわれた対岸から神社の建っている弁天島までの東締切工事と、弁天島の神社前から東防波堤を築く。さらに西防波堤を突き出し右折に沖防を延長させる。弁天島の巌頭と港口に標識灯と港灯を建設する。海底を掘り下げて浚渫(しゅんせつ)の土砂で陸側を埋めたてる。
 臼尻港の全被覆面積六、六四八坪(二一、九三八平方メートル)、一〇〇トン内外の船舶約一〇〇隻の収容を可能とし、防波堤内埋立による用地二、五七〇坪(八・四八一平方メートル)をもつ新港は、全工費一八〇、一〇六円七一銭という積算をもって夢の計画書ができたのは大正元年九月の末であった。
     金拾壱万参千八百参拾円六拾九銭   防波堤費
     金貳千四百拾四円          締切工事費
     金四千百参拾弐円八拾銭       浚渫費
     金千七百六拾八円六拾弐銭      港燈費
     金貳万六千参百八拾四円       器具器械費
     金壱万六千五百七円六拾銭      工場設備費
     金五千円              豫備費

大正元年/臼尻港修築計画の復元図 (作図 二本柳博)