新聞記者が見た噴火後の鹿部村

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 昭和四年一一月七日、東京日日新聞記者の記録には、大沼電鉄は復旧して営業を開始している。
 大沼駅より留の湯行のバスが頻繁に通い、湯治と登山者で満員の賑いである。留の湯より四五丁のところに鹿部村の入口、国道の左手にある小川部落は、水電会社発電所所在地で約一〇棟の社宅を新築中である。
 隣山の上にあった一〇数町歩の農地は降灰のため埋没し、荒れるにまかせている。一二、三戸の耕作者は愛する土地を捨てて長万部方面へ移住したという。
  「ただ灰色の世界と枝葉を熱灰のため焼きつくされた木が恰も槍をさかさまに立てた様な無気味なそして何のゆるぎも無い情景である」
 小川部落と折戸部落の中間に三四戸の人家が軽石の中に埋まっている。
 折戸部落は、現在、僅かに二戸の人家が、めぐりの軽石に支えられて危なげに立っている。
 一〇余戸の四町歩ぐらいの水田は見る影もなく埋没し、火災はなかったが家屋は倒潰して、全部落が没していた。
 役場の収入役の家と耕作者の家の三戸を残して一〇余戸は他へ移住した。
 鹿部本村は純然たる漁村で、二八〇戸の大半は倒潰した。昆布礁は降灰のため埋没の被害をうけ、昆布は烏有に帰してしまった。数十町歩の山林は残らず失われ、二四〇戸余となる。四〇戸は他へ移住した。
 村人は屋外の軽石の除去、井戸の開鑿、橋梁の復旧、住宅の復旧などに精を出している。
 村民の話を聞くと、米から野菜類まで他から供給を仰ぐことは、村民の最も苦痛とするところで、明年は各戸で三〇〇坪ずつの野菜畑を作ることにしているという。
 大災害をもたらした駒ヶ岳の大爆発は、罹災町村の住民、指導者に郷土に対する考えを変革させた一つの転機ともなった。
 時は昭和時代の初めで、世界的に大恐慌がひろがり、日本は内外ともに大きな問題をかかえてその岐路に立ち、選ぶ道の一つ一つが功罪を正史のうえに止めた急転の時代であった。
 国は、貧困の中で女子の身売りなどが多くなっていた農山漁村の疲弊を、自力更正への諸施策を進めようとしていたときであったから、駒ヶ岳噴火の災害復旧とも相俟って沿岸の罹災町村への財政援助は強力なものであった。