臼尻村忠魂碑

884 ~ 886 / 1034ページ
臼尻村では日露戦争の戦死者が熊村に一名いて、臼尻は全員無事帰還していた。このことから熊(大船)側の意向がつよくはたらき、大正二年の熊小学校沿革誌に「熊稲荷神社の境内の招魂碑」の清掃をした記録がある。
 大正二年七月編・熊尋常小学校沿革誌(二)の外的三、其他社会的教化事業の項に
 
  一、大正元年度迄記載スヘキ事項ナシ
  一、大正二年九月十日 尋常科四学年以上男女児童ヲ引率シ稲荷神社境内招魂碑棚内及ビ楷壇等ノ掃除ヲナサシメタリ
  一、大正三年七月廿八日 尋常科一学年以上全部、稲荷神社境内招魂碑棚内楷壇ノ除草ヲナス 社会的教化事業等ノ偉大ナルモノニハアラザルモ村民ノ敬神ノ念ニ幾分ノ強ミヲ加ヘタル如ク児童ノ敬神ノ念ニ増シタルハ言フ迄モナシ
 
 古老の話では、「はじめ戦死した兵士の遺族の家である佐藤家の裏山に木碑が建てられていて小学生らも参拝にいった」という。
 おそらく木碑が建立されたのは明治四三、四年のことであろう。その後、大正に入って稲荷神社の境内に木碑を祀ったのが学校の記録にある碑とおもわれる。
 臼尻村忠魂碑はこのような経緯で、はじめ大船川の西金兵衛グラウンドの背面に建立された。
 忠魂碑の文字は陸軍少将橋口の揮毫になり、大正五年八月三日建立と刻している。

臼尻村忠魂碑除幕式 大正7年


大船寺境内 石碑

○裏面に刻文ナシ
発起人
正面刻文
滝野惣次郎
吉川  迪
金澤松三郎
川井才次郎
金澤徳三郎
田中 正吉
髙谷富三郎
藤 梅蔵
 
寄附人名
金五円 滝野惣次郎
金三円 村井巳代松
 仝  中村 市蔵
 仝  二本柳甚太郎
 仝  加藤 忠
 仝  小川幸一郎
 仝  竹野良之助
 仝  五十嵐軍治
 仝  小川久□郎
 仝  小助川福次郎
金弐円 金澤松三郎
 
 
仝   髙谷富三郎
仝   金澤 島吉
仝   伊藤初太郎
仝   山田粂太郎
仝   西□□□□
仝   工藤 由松
仝   工藤 梅蔵
仝   川井斎次郎
仝   田中 正吉
仝   吉田梅太郎
仝   金澤吉三郎
仝   金澤金太郎
仝   髙杉 藤松
仝   吉川  迪
      地下
      →
仝 □□ ××
仝 京□ ××
仝 □□ ××
仝 鳴崎 □×
仝 林□ ××
仝 天野 □×
仝 浜林 □×
仝 鎌田 吉×
仝 赤坂田之×
仝 成田庸五郎
仝 成田吉太郎
 
 除幕式は大正七年七月二日に開催され、在郷軍人会会員、村内有志、臼尻小学校からも三年生以上が全員参列して盛大に開催された。
 のち、建立地である金兵衛崎に熊(大船)小学校が移転していたので、敗戦後、教育現場にふさわしくないとして占領軍の指示ということで昭和二一年に、学校裏から碑を撤去し海中に沈める議がおこったとき、大船寺の卓玄和尚が、お寺ならば占領軍にも許されるだろうと譲りうけて、人々の力をかりて大船寺本堂前に移し、以後、この回向をつづけて現存している。
 忠魂碑より本堂寄りに地上の高さ八七センチメートルほどの小さな石碑がある。苔むした碑面をなぞって、さだかに読みとれる文字をたどると前項のような碑文となる。
 上段の発起人に名をつらねた人びとは当時の在郷軍人分会の役員である。寄付者の氏名と金額が読みとれる。
 大船寺前の小さな石碑は、大正五年建立当時の臼尻村忠魂碑建立寄付者の碑であろうとおもわれる。
 この碑の由来は、住職伏見雅幸も前住職夫人も知らないとのことである。