敗戦後、混乱の中国に残されて三〇年の歳月を生き抜いた竹内ユキヱは、許可をえて三〇年ぶりに臼尻の母(81歳)のもとに里帰りすることができた。
竹内ユキヱは大正一四年の生まれで、臼尻の竹内春蔵、サハの三女である。臼尻尋常高等小学校を卒業後、一七年のとき上京して親戚の家で暮らしていた。二年後の昭和一九年、大連にいる知人を頼って満洲へ渡った。
当時、満洲では日本人は特別な待遇をされて暮らしていた。半年ほどで日本へ帰る予定であったのが戦争が激しくなり、ついに敗戦となり身を隠すような、危険な日々を過ごしていた。
引揚船もこない、働くこともできないでいるとき、親切な中国人の話で貿易の仕事をしていた主人、朱学明を紹介された。まもなく結婚して子どもも四人生まれた。日本人であることを隠し台湾人であるとして暮らした。
暮らしにはいろいろつらいことが多かった。文化大革命のときが一番つらい日々で、隠していても日本人を妻にしているということで、夫はスパイの嫌疑をかけられたこともあった。子ども達もつらい思いをしたが、主人の姉が守ってくれた。
あるとき警察が来て「李同志、隠れなくてもいい。中国と日本は仲よくしていくんだ」ということだった。
日本の博覧会が中国で開かれた年である。この年、思いきって日本の母に宛て手紙を出した。刺繍工場で働き、若い弟子も大勢いた。昭和四八年、日本の総理大臣田中角栄が訪中したとき以来、中国の日本観が好転した。
つぎの年、一時帰国が許されて母と三〇年ぶりの涙の再会を果たすことができた。それから六年後、昭和五四年八月、母危篤の電報をうけたが日本への帰国が許されなかった。八月三一日、「母死す」の電報があり、ようやく帰国が許されて一一月、夫と子どもたちを中国に残して単身帰国した。
翌昭和五五年八月二六日、三人の子ども長男朱鈞〓・二男朱鈞暟・二女朱雅瑾も母の国日本へ移住の許可をえてやってきた。
昭和五七年、夫朱学明も旅行許可をえて日本にくることができ、久しぶりに夫婦親子で正月を迎えた。夫の移住の許可がおりたのは昭和五八年のことである。
竹内ユキヱの戦後は、三八年の長い戦後であった。ただひとり中国に残った長女から届いた孫の写真を手に、「今、一番幸せです」と竹内ユキエは、元気に鹿部の渡島リハビリーセンターで寮母として働いている。
(昭和58記)
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