〔大漁(たいりょう)の珠玉(たま)〕

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 ときは弘化・嘉永の頃、熊稲荷社の別当田中甚太郎が、晩秋の山野で萱刈(かやか)りをしていた。萱刈りの仕事に疲れた別当は草原に横になり、うたた寝をした。すると夢枕に白髪の老人が現われ、手に持っていた四、五寸程の珠玉(たま)を甚太郎に授けると、老人の姿は消えてしまった。
 夢からさめてみると、確かにまっ白い珠玉が手の中にあるので不思議に思い、この珠玉を大事に持ち帰り、稲荷社のご神前に宝物としてお供えし、朝夕おがんでいた。
 このときから、熊(大船)で大漁がつづいた。誰いうとなくこの珠玉を「大漁の珠玉」とよぶようになった。
 この話をきいた臼尻の網元二本柳庄三郎が、この宝の玉を借りて、大漁を祈って建網の錘(おもり)に結びつけておいた。この夜、海は大時化になり、大事な宝の玉を流失してしまった。
 網元は、神罰ではないかと怖(おそ)れおののいて御神酒を網子にもたせ、熊の茂佐尻崎の山道を越えて、別当甚太郎の許へ大急ぎでかけつけた。
 網元が別当の家にいくと、別当は「網元の顔色がわるいところをみると、貸してやった珠玉をなくしたのではないか」といいあてられた。網元は、いっそう驚いて「全くそのとおりです。面目ないことをしてしまった。とりかえしのつかないことになった」とただ謝るばかりだった。
 すると別当は「それなら心配は無用だ」といって、網元を稲荷社に連れていった。見るとご神前に、なくした純白の珠玉が供えられていった。網元たちはいっそう驚き、ご神前の珠玉にお神酒を供えて何度もおがんで喜びあった。
 このことがあってから大漁の珠玉は、けっして神社から持ち出されることはなかった。そして「大漁の珠玉」として信仰をあつめ、海岸の村々の漁師のお詣りがたえなかったという。
 
 ① 珠玉
   弘化(一八四四)嘉永(一八四八)ノ頃大字熊村稲荷神社別當ニ田中甚太郎ト云フ者アリ。晩秋ノ頃山ニ萓刈リテ行キ疲レヲ覺エシバシ假眠ミシニ、白髪ノ老人来タリテ径四寸程ノ純白ナル珠玉ヲ與ヘテ去レリ。夢ヨリ覺ムレバ不思議ニモ依然トシテ珠玉アリ。訝リ且ツ喜ビ寶物トシテ神前ニ供ヘ居タリ。其後誰云フトナク大漁ノ玉ト称セリ。
   臼尻ノ人二本柳庄三郎請ヒテ其ノ寶玉ヲ借リ建網ノ錘トシテ試ミタリ。
   然ルニ其夜大時化ノタメ不幸其ノ寶玉ヲ流失セリ。同氏神罰恐ルベシト、酒ヲ調ヘ別當宅ヲ訪レシニ「其許の顔色常ならず、必諚先つ日貸し與へし珠玉を失いしためならん」ト。
   庄三郎大イニ驚キ「如何にも然り、面目なくして謝罪のため出掛けたるなり」ト答フ。別當「それならば案ずるに及ばず大時化の夜戻りて神前にあり」ト謂ヒツツ持チ来タルヲ見ルニ、マガフ方ナキ珠玉ナリシト。
                              函館支庁管内町村誌「臼尻村」大正七年