1
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斉明5年
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659
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阿部比羅夫、蝦夷および粛慎を討ち郡領を後方羊蹄に置く。
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関連
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2
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文治5年
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1189
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源頼朝、奥羽の藤原泰衡を滅し、その部下蝦夷地へ逃れ、移住したといわれる。
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3
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建保4年6月
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1216/6
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鎌倉幕府、強盗海賊の徒を蝦夷地に流す。「吾妻鏡」
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4
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永仁4年
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1296
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日蓮の高弟日持上人蝦夷地に渡来、石崎に住み布教。(函館をはじめ各地に口碑伝説あり)
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5
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元弘4年/建武元年
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1334
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「宇賀昆布」の名が、「庭訓往来」に載る。
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70 72
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6
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貞治6年
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1367
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貞治の板碑、函館の称名寺に現存。
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7
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嘉吉3年
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1443
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安東盛季、南部氏に攻められ、津軽から蝦夷島に逃れる。
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8
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享徳3年
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1454
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安東政季が武田信広、相原政胤、河野政通に守られ蝦夷地に渡来。
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9
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享徳3年
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1454
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河野政通、宇須岸に館を築きこれによる。
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10
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康正2年
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1456
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志苔の鍛冶屋村の鍛冶と夷人、小刀のことについて争う。(東は鵡川西は余市以南の和人多く殺される)一説「各村創立聞取書亀田村外七ヶ村 明治十九年」には亀田の鍛冶村という。しかし時代的に相違があるので疑問である
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11
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康正2年
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1456
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蝦夷蜂起、河野政通の居館陥る。
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12
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長禄元年5月
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1457/5
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コシャマイン大挙して攻撃、志濃里箱館の館など諸館陥落、上の国花沢の館、下の国茂別の館だけが残る。
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13
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長禄元年6月
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1457/6
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武田信広、奮戦コシャマインを討ち和人の窮地を救う。信広、のちに蠣崎家を継ぐ。
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14
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長禄3年
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1459
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随岸寺を松前の大館に移す。(亀田にあったといわれる) 「北海道旧纂図絵」
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15
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文明3年
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1471
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蝦夷人に疫病流行、風災飢饉重なり死亡するもの多数。
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16
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明応元年
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1492
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亀田八幡宮建立。
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17
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明応元年
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1492
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亀田村の戸数二〇戸。
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18
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明応3年
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1494
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蠣崎信広没し、光広第二代を継ぐ。
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19
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永正9年
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1512
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蝦夷蜂起し、箱館、志濃里、与倉前の館が陥落、河野季通敗死。(これより箱館の荒廃久しく、亀田に中心が移る)
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20
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永正10年
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1513
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蠣崎光広、大館を攻め相原氏を討つ。
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21
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永正11年
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1514
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蠣崎光広、大館に移り修築して徳山と名づける。(安東氏に従属して蝦夷島を管理)
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22
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天文19年
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1550
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蠣崎季広、東西の蝦夷と講和し、瀬田内のハシタインを西の酋長、知内のチコモタインを東の酋長として俸米を給し、交易の制度を定めた。渡島南部における和人の勢力が固まる。
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23
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天正10年
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1582
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鍛冶村へ小柳善右衛門の祖、善右衛門という者津軽地方より移住。「鍛冶村起源」
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24
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天正18年
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1590
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蠣崎慶広、京にのぼり秀吉と会見。安東氏より独立。この年、和、夷の地を定め江差、熊石、亀田に番所を設ける。
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25
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文禄2年正月
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1593/1
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蠣崎慶広、名護屋で秀吉と会見し、蝦夷に関する制書を与えられる。(商船に対する徴税権の確認、このときより蝦夷島の領主となる)
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3 93
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26
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文禄3年
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1594
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亀田八幡宮、松前家の祈願所となる。
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関連
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27
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文禄5年/慶長元年
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1596
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慶広、長子盛広とともに京にのぼり徳川家康と会見。
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28
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慶長4年3月
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1599/3
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小柳善右衛門、鍛冶村に山城国紀伊郡の稲荷神社分霊を移し、小祠を建立。(現鍛冶村稲荷神社のはじまり)「鍛冶村起源」
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80 806
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29
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慶長4年
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1599
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慶広、大阪で家康に会い地図および系図を献じ、このときより蠣崎氏を松前氏と改める。
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30
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慶長8年10月
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1603/10
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亀田八幡宮本殿および拝殿を建立。
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74 806
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31
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慶長9年
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1604
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慶広、将軍家康と会見し、黒印の制書を受ける。
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関連
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32
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慶長18年
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1613
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亀田番所設置、松前藩士白鳥孫三郎に近郷を守護させる。(亀田番所は、のちに亀田奉行所となる)
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関連
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33
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寛永10年
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1633
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亀田村に高龍寺創建。
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3 74
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34
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寛永10年
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1633
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松前氏封内の里程を測量。
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35
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寛永17年6月13日
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1640/6/13
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駒ケ岳爆発し、大津波起こり七〇〇余人溺死。
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36
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正保元年
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1644
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亀田に阿弥陀堂建立。(のちの称名寺)
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関連
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37
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正保3年
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1646
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松前景広「新羅之記録」を子孫のために浄書させる。
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38
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正保4年
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1647
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高村卯之助の祖、辰之丞という者南部地方より移住開墾。「鍛冶村起源」
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関連
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39
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明暦3年
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1657
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覚右衛門の祖、徳右衛門という者、南部地方より移住開墾。「鍛冶村起源」
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関連
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40
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萬治元年
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1658
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亀田で春、夏疱瘡流行して多くの死者が出る。「渡島教育資料集」
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41
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寛文6年
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1666
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この冬飢饉となり難民統出、松前藩蓄穀乾魚等を施与して救済。
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42
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寛文9年
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1669
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シャクシャイン暴動を起こし和人を襲い二七三人を殺害。(酒井左兵衛、雑兵二〇〇人をもって亀田を守る)
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関連
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43
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寛文9年
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1669
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亀田の戸数二〇〇戸余となる。
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74 76
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44
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延宝8年
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1680
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松前藩、津軽藩から米五、〇〇〇石を借用。(奥羽凶作となり、松前への移入米少々)
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45
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貞享元年
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1684
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佐々木四郎の祖、佐四郎という者南部より移住、神山にて農業を営む。「鍛冶村起源」
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関連
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46
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貞享3年
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1686
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神山に佐々木三郎という者、南部七戸より移住開墾。
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47
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元禄元年
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1688
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山上大神宮、亀田村より箱館片町へ移る。「岡田健蔵論集」
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関連
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48
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元禄4年
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1691
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松前藩、制書を改めて亀田奉行に下付。
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関連
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49
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元禄5年
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1692
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亀田村の作左衛門、水稲を試作し失敗して二、三年で廃止。「松前蝦夷記」
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関連
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50
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元禄6年
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1693
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荒川喜平治の祖弁之助という者、鹿角より移住開墾。「鍛冶村起源」
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関連
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