函館市史 銭亀沢編

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No 時代 年月日表記 西暦 できごと 関連
1 文治5年9月3日 1189/9/3 源頼朝奥州の藤原泰衡を追討,敗走の泰衡は郎従河田次郎に討たれる。(『吾妻鏡』)この時糠部津軽より多くの人蝦夷島へ逃げ渡る。彼らの末孫が蝦夷島に在るという。(『新北海道史』史料一「新羅之記録」) 3
2 建保4年6月 1216/6 東寺凶賊以下強盗海賊50余人を奥州へ送り,夷島へ放つ。(『吾妻鏡』)彼らの末を渡党という。(『新北海道史』史料一「新羅之記録」) 3
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3 永仁3年 1295 異境布教を志した日蓮の高弟日持渡来,石崎に庵を結ぶという。(『函館市史』史料編第一巻「蝦夷実地検考録」) 7
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4 永享11年3月 1439/3 平氏盛阿彌,脇沢[現在の函館市石崎町]の山神へ鰐口を奉納,「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前永享十一年三月日施主平氏盛阿彌」の銘あり(同上),現在は石崎八幡宮が所管。 7
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5 宝徳元年4月29日 1449/4/29 足利義政足利幕府第8代将軍[~1473(文明5)]となる。
6 康正2年春 1456/3 志濃里の鍛冶屋村で,〓刀の善悪価で口論となり鍛冶がアイヌの乙孩(青年のこと)を突き殺す。アイヌ蜂起の発端で,大永5(1525)年まで争乱が続き,生き残った人びとは松前と天川に集住するという。(『新北海道史』史料一「新羅之記録」) 52
7 長禄元年5月14日 1457/5/14 アイヌが蜂起して志濃里の館主小林太郎左衛門尉良景,箱館の河野加賀守政通を攻撃,さらに各地の館を攻略,茂別,花沢両館のみが堅守,武田(松前家の祖)信広がアイヌの長コシャマイン父子を射殺したためアイヌ敗北。(同上) 52
8 永正9年4月16日 1512/4/16 アイヌの攻撃で宇須岸,志濃里,与倉前の3館陥落し,宇須岸の河野政通の息男季通,志濃里の小林良景の子良定,小林二郎左衛門尉政景の子林季景自害。(同上) 6
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9 天文20年 1551 季広(信広-光広-義広-季広),東西アイヌと講和。瀬田内のハシタインを上国で西夷の酋長とし,知内のチコモタインを東夷の酋長とし,蝦夷地交易の商船から「夷役」を徴収,両酋長に配分する。(同上,『松前町史』史料編一「松前家記」)
10 文禄2年1月 1593/1 松前慶広(信広-光広-義広-季広-慶広),豊臣秀吉から国政の朱印状(蝦夷島支配者として公認)を受ける。(同上)
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