恵山町史

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No 年月日表記 西暦 できごと 関連
1 永仁4年 1296 日持上人宇須岸に上陸、石崎に小庵を結び布教したという。小庵は後に経石庵(妙応寺前身)とよんだ。
2 建武元年 1334 この年書かれた「庭訓往来」に宇賀昆布の名が出ている。宇賀昆布は釜谷の運荷川(昔はウカ・雲加・運賀と呼んでいた)の附近産の昆布を指唱したものである。 702
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3 延元元年 1336 敗戦の豪族や志を得ない武士達が渡来し、道南各地に館を築く。 1029
4 延元4年 1339 当時の尻岸内は豪族相原周防守の所領といい、戸井、椴法華の両村は岡部六郎左エ門の所領地であったと伝えられる。 467
5 正平11年 1356 尊氏の祐筆小坂円忠の「諏訪大明神絵詞」成る。
6 永享11年 1439 蝦夷島脇沢山神(銭亀沢石崎)に鰐口を寄進したものがある。
7 享徳3年8月 1454/8 武田信広大畑より遁れて奥尻島に渡り、後ち上ノ国の花沢館主蛎崎季繁のもとに身を寄せた。 1029
8 享徳3年 1454 河野政通が箱館に館を築いた。
9 長禄元年5月 1457/5 夷酋コシヤマインが衆夷を糾合して乱を起こし、道南の諸館を襲った。 1029
10 長禄元年6月 1457/6 武田信広コシヤマイン父子を倒して乱を鎮定した。 1029
11 応仁元年 1467 松前地、大風と飢饉のため多く死んだ。
12 文明元年8月12日 1469/8/12 尻岸内のアイヌが汐首以東のアイヌを糾合して反乱、箱館を攻めた。この年から3年間反乱が続いた。
13 天文19年 1550 季広東西の蝦夷と和睦し、箱館・江差を和人地と定め、また夷地との交易の制を樹立。
14 天正18年 1590 熊石から汐首岬までの間を和人地とし、それ以外を蝦夷地とした。(即ち、下海岸は汐首岬以西が和人地、以東が蝦夷地とされたのである。)
15 文禄元年 1592 近江商人福山に往来し、江差もまた大いに繁栄した。
16 慶長16年 1611 東蝦夷地に大津波が起り多くのアイヌが死んだ。
17 慶長17年 1612 漁期になると和人が来て伊岸内川の東側に仮住して漁をした。(伊岸内川とは現在の尻岸内川をいう。)
18 寛永17年6月13日 1640/6/13 正午駒ヶ岳が噴火、津波のため昆布船100余艘がこわれ、和人とアイヌ合わせて700人の溺死を出した。降灰は遠く越後におよんだ。 87
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19 天和2年 1682 尻岸内八幡社創建。
20 貞享4年 1687 仙台船日浦で遭難破船。
21 元禄4年4月12日 1691/4/12 夜地震あり、翌日日光に異状を認む。
22 元禄4年 1691 松前藩主、亀田奉行へ昆布採取の規則を指示。 726
23 元禄5年5月 1692/5 尻岸内アイヌ、藩主矩広(のりひろ)に拝謁を賜る。
24 元禄15年7月29日 1702/7/29 暴風、8月もまた大暴風雨となり秋は飢饉に見舞われた。
25 宝永元年 1704 修行僧正光空念が渡島し道南各地を行脚して納経、下海岸は箱館から汐首岬を越え恵山を訪れた。「正光空念納経記」に江山大権現、本地千手観音、奉勧請地神三代増々杵尊、東嶽沙竭羅龍玉第二豊玉姫尊、と記されている。 1382
26 享保5年6月 1720/6 西村善次郎陸奥国南部より初移住。 359
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27 元文3年 1738 野呂平四郎ら津軽黒石から移住。 359
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28 元文4年7月 1739/7 日浦、尻岸内にそれぞれ2戸移住。
29 元文4年 1739 北海随筆に「東方亀田を関とすれども今は箱館を東関とす。然れどもハラキ(原木)より夷地たり」とある。
30 元文5年 1740 松前藩、幕命により蝦夷地の昆布、煎海鼠(いりこ)・身欠鰊(みがきにしん)・天草・串鮑(あわび)を移出、これを契機として昆布・イリコ・串貝は「長崎俵物」と称し、支那向の重要な貿易品となる。 730
31 寛保元年 1741 亀田番所を箱館に移転。
32 宝暦2年9月 1752/9 根田内に巌島神社創建。 1378
33 宝暦3年4月 1753/4 古武井に海積(わたづみ)神社創建。 1378
34 宝暦3年 1753 船役、図合船は1両、三半船で3分、持符船で2分、保津船1分とされた。
35 宝暦6年 1756 長崎俵物支配方寺井平次郎が、松前藩の許可を得て道南の炒子(いりこ)・白鮑(あわび)を一手に買入れることになった。
36 宝暦10年 1760 大畑の菊地忠右エ門が尻岸内から木材を伐り出し移出した。
37 明和元年7月 1764/7 下旬−恵山硫黄の気発動して工夷多く死亡せり。(蝦夷旧聞) 88
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38 安永7年 1778 この頃、尻岸内場所は春漁のみを松前藩士の木村知八が知行。
39 安永8年5月19日 1779/5/19 茅部地方の漁民300人が亀田に集まり、翌日600人余が箱館に集合し、亀田番所に漁船の役金免除、長崎俵物の一手買いの中止を訴えた。亀田奉行工藤平右エ門はこの願いを松前に伝えると約束。
40 安永8年7月22日 1779/7/22 松前藩士蛎崎、牧村がこの日より亀田番所で強訴の一件につき取り調べ、7月25日昆布一手買い上げの命があったとき、背反しないよう申渡し証文を取った。強訴の首謀者は2人、妻子を連れて逃亡。
41 安永8年8月20日 1779/8/20 亀田奉行工藤平右エ門免職、逼塞(ひっそく)を命ぜられ一家もまた差控えとなった。
42 安永9年 1780 この年より小安、汐首の辺で豊漁続く。
43 安永9年 1780 白鳥新十郎恵山の硫黄を採掘。 713
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44 天明3年 1783 恵山の硫黄採鉱を福山の藤七理三郎ら出願。 850
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45 天明3年 1783 奥羽地方大飢饉となる。この年から数年凶作が続き多数の餓死者を出し「津軽旧記」によれば12月1日より23日までに弘前居住者での死人997人、その外浦々より罷上(ひあが)り侯て死亡せしもの数万となる、とあり。従って米の移入も急激に減り、米1升の値段が100文に昂騰したので、松前藩は造酒を禁止し更に蝦夷地の産物の移出を制限した。
46 天明3年 1783 江差海岸鰊薄漁となり、西蝦夷地へ魚群が移動し始め、漁民は西蝦夷地へ出稼ぎした。これを「追鰊」という。
47 天明5年 1785 長崎俵物請負人を廃止、長崎会所直買入となる。
48 天明6年4月 1786/4 3本マストの異国船が、恵山沖・汐首沖・箱館沖を通り、江良町沖に仮泊して上陸し、5月には瀬棚のスッキに仮泊して上陸し、アイヌにパンや酒を与え、再び茂草沖に現れ、離島大島と小島の間を通って南方に姿を消した。
49 天明6年 1786 この頃、下在六箇場所は箱館の白鳥家の請負場所であった。
50 天明7年 1787 この年、平秩東作の書いた「東遊記」に“志野利浜の昆布は、上品に非ざれども、長崎の俵物にて異国人懇望する故金高なり”と。 730
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