戸井町史

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No 年月日表記 西暦 できごと 関連
1 文治5年9月3日 1189/9/3 源義経を討った藤原泰衡が、頼朝に攻められ、敗れて比内に逃れ、河田次郎の柵に立寄り河田のために殺され、泰衡の従者がちりぢりになって蝦夷地に逃れたという。 148
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2 建保4年6月14日 1216/6/14 東寺を襲った凶賊、海賊の類五十余人が捕えられ、一度奥州に送られ、後蝦夷が島に放遂された。 149
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3 文暦2年7月23日 1235/7/23 この年九月十七日に嘉禎と改元された。「夜討、強盗の張本人は直ちに断罪し、枝葉罪者(従犯者)は、関東に召し集め、夷島に遣わすべし」と定めた。犯罪人は汐首以東に流したというが明確ではない。 149
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4 永仁4年5月 1296/5 日蓮上人の高弟日持上人がウスケシ(函館)を経て黒岩に立ち寄り、石崎の白石に滞留して小庵を結んで和人や蝦夷を教化し、椴法華から唐に渡ったと伝えられている。小庵は後に経石庵と称され、日持山妙応寺の前身である。 149
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5 元弘4年 1334 この年に書かれた『庭訓往来』に「宇賀昆布」の名が出ている。「宇賀」は旧銭亀沢の宇賀だという妄説を唱える者もあるが、「庭訓往来」の「宇賀」は、釜谷の運荷川附近を指したものである。昔はウカ、雲加(うんか)、運賀などと呼ばれていた。(僧玄恵著) 129
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6 応永21年2月 1414/2 安東盛季、茂別にて歿す。(秋田家系図)松前史では盛季の渡島が嘉吉三年(一四四三)になっている。『満済准后日記』に「幕府が南部氏と安東氏の和睦をすすめる使者を再び派遣した」という記録があるので盛季の渡島は永享四年以前とも考えられる。 150
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7 永享4年12月10日 1432/12/10 安東盛季が南部義政に攻められ、敗れて十三湊から蝦夷地に逃れ、茂別に拠った。この時永喜坊(道明)山王坊、万願寺、実相などの僧侶が随従して渡海したと伝えられている。(新羅之記録等では嘉吉三年になっている。) 150
8 永享4年 1432 幕府は南部氏と蝦夷地に逃れた安東氏との和睦をすすめる使者を再び派遣した。(満済准后日記) 150
9 嘉吉3年 1443 小山四郎隆政が一族の者八人を引連れて、南部の野辺地から上の国に渡って館を築いたという。 151
10 嘉吉3年 1443 蠣崎修理大夫季繁が蝦夷地に渡り、上の国に拠ったという。松前史では若狭国から渡島したとなっているが疑問である。下北から渡島したものと思われる。康正の頃下北に蠣崎主税、蠣崎三郎右衛門などという者がいたが、この一族であろう。 151
11 文安3年 1447 安東盛季の二男安東康季が、津軽奪還を図って茂別から津軽に渡ったが、志を果さずして、病死した。
12 享徳2年 1451 下国安東盛季の孫、安東義季津軽奪還を図って、大浦郷狼の倉、高館にたてこもり、南部の軍勢に攻め落されて、生害し、二男政季が南部に捕えられた。コシャマインの乱の時は政季の弟家政が茂別に居り、同族定季が大館に居た。 153
13 享徳3年8月28日 1454/8/28 安東政季、蠣崎信広等が南部を逃れ、大畑から蝦夷地に渡ったという。これは新羅之記録など松前側のものであるが南部側の記録は康正三年となっている。前後の事蹟から松前側の享徳三年は疑わしい。 153
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14 康正2年5月 1456/5 志濃里(しのり)の鍛治屋にアイヌの酋長がマキリ(小刀)を頼み、その利鈍(りどん)についての口論から、鍛治屋が酋長の使いのアイヌを刺殺したことが発端になり、東部の総酋長コシャマインが衆夷を糾合して乱を起し、和人の諸館を次々と攻め落した。(乱の終結は長禄元年)
15 康正2年 1456 安東政季が湊安東家の招きにより、茂別から秋田に渡り、湊家の援助を受けて、河北郡を従えた。
16 長禄元年5月 1457/5 花沢館を守っていた武田信広(蠣崎信純)が、長馳してコシャマインの本拠箱館を襲い、七重浜にコシャマイン父子をおびき出し、コシャマイン父子を打ち殺して、蝦夷の大乱を平定した。 1135
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17 康正3年 1457 下北城が沢の北部王家五代義純の順法寺城を攻め、北部王家を滅した蠣崎錦帯城の蠣崎信純が、根城南部十三代の南部政経に攻められ、大敗して、安東政季と共に大畑から蝦夷地に逃れた。この頃南の各所に和人の館があった。(九月二十八日長禄と改元) 151
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18 康正3年 1457 波多城主、畑因幡(いなば)が帰農して大畑順右衛門と称した。
19 長禄2年 1458 恐山の僧大諦が蠣崎信純に味方したため、金剛念寺を破壊され寺を迫われた。
20 長禄3年6月1日 1459/6/1 嘉峰(かほう)和尚が戦乱を避けるために随岸寺を宇須岸(うすけし)(亀田及び近村の古名)から大館(松前)に移し、一宇を建立した。随岸寺は北海道最古の寺といわれ、開山嘉峰和尚は若狭国から渡島したという。
21 寛正3年5月 1462/5 蠣崎季繁、上の国に歿す。
22 文明元年8月3日 1469/8/3 汐首岬以東のアイヌが大挙して箱館を攻撃した。この年から三年間アイヌの反乱が続いた。この頃道南に疫病が流行し、多くの和人やアイヌが死んだ。
23 文明7年2月 1475/2 安東盛季に随従して渡島した永善坊道明が死去した。享年九十才。(実地検考録には九十二才とある)
24 長享2年 1488 安東政季、津軽奪還を図り、南部軍に攻められて敗れ、河北郡糠野城において討死した。
25 明応3年5月 1494/5 蠣崎信広が桧山勝山館で死去し、夷王山に葬られた。享年六十四才。
26 明応年間 1501 嘉永元年(一八四八)八月二日、戸井の宮川大明神、拝殿再建の棟札に「明応年中鰐口有之」と書かれている。道南の鰐口では、石崎村字脇の沢(宮の沢)の土中から堀り出された永享十一年(一四三九)銘のあるものの次に古いものであるが現存していない。 300
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27 永正9年4月 1512/4 志苔(しのり)以東のアイヌが反乱し、箱館、志苔、与倉前(よくらまい)の三館を攻め落し、附近の村落は焼かれ荒廃に帰し、和人無住の地になった。この乱で箱館々主河野季通、志苔館主小林良定、与倉前館主小林季景等が悉く討死した。
28 大永3年 1521 和人がアイヌに乱暴を加え、アイヌを殺傷させた事件があり、これに怒った東西のアイヌが蜂起し多くの和人を殺した。勢に乗じたアイヌの集団が松前に迫ったので、松前附近の和人は上の国に避難した。
29 天文19年 1550 蠣崎季広はアイヌと和睦し、和人の居住地を箱館と江差附近に限定し、アイヌとの紛争を避ける方策をとり、コシャマインの乱以来百年の久しきに亘った道南における和人とアイヌの争乱が完全に終熄(しゅうそく)した。
30 永禄8年2月20日 1565/2/20 日本に滞留していたヤソ会士ルイス・フロイズが本国に送った報告書に「日本国の北方殆んど北陸の直下に藩人の大いなる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり(中略)彼等の中、ゲワ(出羽)の国の大いなる町アキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し」とある。 820
31 天正18年 1590 蠣崎季広の和蝦の紛争を回避する方策を受け継いだ、松前五代藩主蠣崎慶広は、和蝦居住の現状により、熊石から汐首岬までの間を和人地とし、それ以外を蝦夷地とした。即ち下海岸は汐首岬以西が和人地、以東が蝦夷地になった。 169
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32 慶長9年1月 1609/1 徳川家康から松前藩主に黒印の制度が出された。その趣意は「①志摩守(松前藩主)に無断でアイヌと直商買をすることを厳禁すること。②無断で渡海して売買する者は言上すること。③アイヌに対し無体のことを言わないこと。以上のことに違背した者は厳科に処する」というものであった。
33 慶長16年 1611 東海岸に大津浪が起り、多くのアイヌが死んだ。
34 慶長17年 1612 この頃、漁期間だけ和人が、原木、鎌歌へ来て昆布などを採っていた。この頃は原木、鎌歌はまだ蝦夷地であったので、隠れるようにして来ていたのである。
35 寛永元年 1624 この年疱瘡が大流行し、多くの和人やアイヌが死亡した。松前藩主公広の子兼広や、慶広の第八子満広も疱瘡にかかって死亡しているくらいなので、その流行の程が知られる。
36 寛永2年 1625 小安地域に和人の定住する者が増加し、部落民相諮(はか)り八幡神社を創建した。戸井六社のうちで最も早く創建された神社で、和人定住の年代を物語る神社である。 133
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37 寛永10年7月 1633/7 徳川三代将軍家光の派遣した巡見使が渡島した。第一回目の巡見使で、将軍の変る度に派遣されたが、その範囲と経路はすべて第一回目と同じであった。下海岸は代々石崎まで来た。黒岩でアイヌの代表が謁見(えっけん)を許された。 163
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38 寛永17年8月 1639/8 九州天草の乱に敗れて蝦夷地に逃れ、福島の千軒金山に隠れていたキリスト教徒一〇六人が捕えられ、千軒金山附近の沢で斬首された。このころ幕府の命令により、全国の僻地にかくれていたキリスト教徒が処刑された。
39 寛永17年6月13日 1640/6/13 この日正午、駒ヶ岳が噴火して大津波が起り、噴火湾で昆布取をしていた百余艘の磯舟が転覆し、和人とアイヌ合わせて七百余人が溺死した。噴火による降灰は道南地方だけでなく、津軽、南部、秋田、越後にまで及んだ。 848
40 正保3年9月18日 1646/9/18 松前家三代藩主慶広の六男景広が、松前家が幕府に提出した家譜をもとにして『新羅之記録』を編纂した。 150
41 明暦元年 1655 争乱中のシブチャリの酋長シャクシャインとハエの酋長オニビシが、福山城に会して講(こう)和談判を行い、松前藩の調停で和睦した。
42 万治元年 1658 この年の夏に、和人地、蝦夷地に疱瘡が大流行し、和人やアイヌが多く死んだ。
43 万治2年 1659 松前欣求院で千体仏供養が行われた。この仏像の作者は僧大蓮といわれ、大蓮作と思われる木造仏が道南各地にある。「この仏像の作者は目定(もくじょう)である」という妄説を唱えた者があって一時素人を迷わせた。目定という名は円空を草書で書いた原稿を誤植した印刷物から生れたということが判明した。 370
44 寛文3年7月 1663/7 有珠岳が大爆発を起した。
45 寛文6年 1666 美濃の僧円空が汐首を訪れ、鉈彫りの観音像を残して行った。この木造観音は汐首観音堂に伝承され、現在も観音堂に安置され、村人に尊信されている。 168
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46 寛文9年6月 1669/6 シブチャリの酋長シャクシャインが、東西のアイヌを糾合して反乱を起し、和人二八〇余人を殺した。松前藩は蝦夷討伐の軍勢を派遣し、幕府は津軽藩に松前藩の蝦夷討伐の支援を指示し、津軽藩は軍兵を渡海させた。 173
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47 寛文9年 1669 シャクシャインの反乱鎮圧の支援に渡海した津軽藩士が、蝦夷地の様子を逐一藩主に報告した。この時の記録が「津軽一統志」の中に残っており、この時代の蝦夷地の事情を知る重要な資料になっている。 173
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48 寛文10年 1670 「このころの百姓の年貢は、昆布二〇駄(だ)から三〇駄であった」という記録があるが、昔は漁師をも百姓と称し、昆布漁村の漁民の年貢はすべて昆布の物納であった。昆布の一駄とは長さ三尺の昆布五〇枚を東ねたもの四把を称した。即ち昆布二〇〇枚であった。
49 延宝8年12月 1680/12 柏厳峯樹門昌が熊石で斬られた。
50 元禄元年 1688 釜谷地域に定住する和人が増加し、釜谷神社が創建された。祭神は大己貴(おおなむち)命(大黒様)である。小安八幡神社創建の六三年後である。後世になって汐首神社に安置されていた二体の木造神体の一体が釜石神社に移されたと伝えられている。 168
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