1
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文治5年
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1189
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源頼朝奥州平定、藤原泰衡の残党及び糠部、津軽の人、蝦夷地に渡る者あり
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305
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元久2年
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1205
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この頃、津軽の安東氏、蝦夷地の代官として置かれる。
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3
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健保4年
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1216
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鎌倉幕府、強盗、海賊の徒五十余人を蝦夷島に追放すべき旨沙汰する。「吾妻鏡」
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4
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永仁4年
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1296
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日蓮宗の僧日持渡来、石崎に来り布教の伝説あり、(日持に関する伝説は多数あり、その一つに、永仁7年(1299)又は徳治元年(1306)椴法華より唐土へ出発するの伝説がある。)
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307
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5
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元弘4年
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1334
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僧玄恵著「庭訓往来」に、宇賀昆布、夷鮭の名が記される。(宇賀は、現在の函館市志苔銭亀沢地域を示しており、ここで採れた昆布が、この頃すでに京都、大阪方面に運ばれ珍重されていたことが知られる。
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306
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6
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正平11年
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1356
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諏訪大明神絵詞(スワダイミヨウジンエコトバ)完成
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7
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正平22年
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1367
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貞治6年の板碑、函館の称名寺に現存
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8
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永享11年
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1439
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平氏盛阿弥、夷島脇沢山神に鰐口(わにぐち)を寄進、(函館市石崎八幡宮神社所蔵)
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308
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9
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享徳3年
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1454
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安東政季、南部より、武田信広、相原政胤、河野政道に守られ本道へ逃れる。(この後河野政通、宇須岸(ウスケシ)(現函館)に河野館を築く)
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307
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10
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康正2年
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1456
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蝦夷蜂起し東は、鵡川、西は余市以内の和人多数殺害される。
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11
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長禄1年5月
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1457/5
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コシャマイン大挙して攻撃、当時、道南に在った12館のうち10館が陥落、かろうじて上ノ国花沢の館・下国茂別の館だけが残る。
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310
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12
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長禄1年6月
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1457/6
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武田信広が奮戦し、コシヤマインを七重浜で討ち、蝦夷の乱ようやく静まると伝えられる。
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13
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長禄2年
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1458
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この年、津軽の蠣崎蔵人、八戸政経に攻められ、蝦夷地に逃げる。「東北太平記」
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14
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文明1年8月12日
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1469/8/12
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尻岸内蝦夷蜂起「北海道旧纂図絵」(真偽不詳、参考として記す。)
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309
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15
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文明3年
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1471
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夷乱、風災飢饉、人夷死亡多数あり、「福山秘府」
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16
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永正9年4月
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1512/4
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蝦夷反乱し、箱館、志濃里、与倉の各館陥落、このため箱館地方久しく荒廃。
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17
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大永5年
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1525
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春、東西蝦夷蜂起し和人を殺害する。このため生き残りの者、松前、天の川の地域に集合する。
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18
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天文20年
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1551
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春、蠣崎季広、蝦夷と講和し、瀬田内のハシタインを西の酋長、知内のチコモタインを東の酋長として俸米を与え、交易の制度を定める。
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19
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天正18年12月
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1590/12
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蠣崎慶広、京都において豊臣秀吉に会い、従五位下民部大輔に任せられ蝦夷島主として安東氏より独立
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20
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文禄2年1月2日
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1593/1/2
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蠣崎慶広、肥前名護屋の陣営において豊臣秀吉に会い、志摩守に任じられる。 「新道史年表」
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21
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慶長4年11月7日
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1599/11/7
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蠣崎慶広、大坂城で家康に会い、系譜、蝦夷地図を呈上、この時、氏を蠣崎から松前と改める。
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22
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慶長年間
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1599
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松前藩、亀田番所を設置、白鳥孫三郎に近郷を治めさせる。(~1615年)
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23
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慶長5年9月
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1600/9
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関が原の戦いがおきる。
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24
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慶長8年
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1603
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徳川家康、幕府開設
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25
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慶長9年1月27日
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1604/1/27
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松前慶広、徳川家康より黒印の制書を頂戴する。(徳川氏の家臣となる。)
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26
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寛永10年7月
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1633/7
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巡見使分部左京佐光信等、東は、石崎、汐泊から、西は乙部、瀬茂内までを巡見
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737
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27
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寛永10年
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1633
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この年、亀田に高龍寺建立
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28
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寛永17年6月13日
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1640/6/13
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駒ヶ岳大噴火、大津波発生、昆布取船百余艘遭難、和人、蝦夷など700余人溺死、降灰津軽、南部にまでおよぶ
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1116
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29
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正保3年
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1646
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松前景広「新羅之記録」を三井寺園城寺境内の新羅大明神に奉納
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30
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慶安1年
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1648
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シブチャリのシャクシャインとハエのオニビシが戦う。(この年より争い6年続く)
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31
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明暦1年
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1655
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シブチャリの酋長シャクシャインとハエの酋長オニビシ、福山城で和解
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32
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寛文3年7月
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1663/7
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東蝦夷地宇須岳噴火 7月14日より16日まで、松前のえさんと申し嶽噴火、海の表鳴り渡り、塩の指引さして海上の船まで難義、浜中さはぎ山々へにげ登る。「青森市史年表」
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33
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寛文5年
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1665
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この頃、僧円空蝦夷地に渡来、恵山にも仏像を祭ると云い伝えられる。
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34
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寛文6年
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1666
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シャクシャインとオニビシまた争いを起こす。
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35
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寛文6年
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1666
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この年、風向きが悪く入船途絶のため飢饉となる。
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36
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寛文7年6月
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1667/6
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巡見使佐々又兵衛等渡来、7月帰帆
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37
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寛文9年夏
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1669/6
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シャクシャインに率いられた日高シブチャリのメナシクル蜂起、商船19隻を破壊当時東蝦夷地に居た、侍鷹師、通事、船乗など273人を殺害、大乱となる
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38
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寛文9年8月16日
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1669/8/16
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松前藩士卒千余人、蝦夷地へ向け出兵
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39
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寛文9年9月8日
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1669/9/8
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松前藩加勢のため津軽藩の侍48人、雑兵七百余人この日福山に到着。
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40
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寛文9年10月
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1669/10
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シャクシャイン斬殺される。
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41
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寛文9年
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1669
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この年、尾札部周辺のアイヌ人、東蝦夷地の動静について亀田番所(松前勢)に通報する。この時、尻岸内より尾札部、落部までを持場とするアイヌ酋長アイツライ(別名アイコライン)は、松前側に味方するが、和人側が敗れそうになった場合は、アイヌ人側に味方しようと考えていた。「榊氏系譜」、「寛文拾年蝦夷蜂起集書」
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42
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寛文10年5月
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1670/5
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津軽藩、西蝦夷地へ牧村只右衛門、東蝦夷地へ秋元六左衛門にそれぞれ鉄砲打と通詞を従えて派遣し、窃かに蝦夷地の情勢をさぐらせる。後にこの時の記事が「津軽一統志」に記される。ゑさんの崎、焼山あり、屋志ろの浜、よき間有と「津軽一統志」に記される。
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43
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延宝8年
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1680
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津軽、南部地方大凶作のため蝦夷地飢饉となる。
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44
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延宝年間
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1681
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飯田与五左衛門、宇佐八幡より勧請して神社を恵山絶頂に奉祀、社号を恵山八幡宮と称す。「椴法華八幡宮明細書」(~1681年)
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45
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元禄4年
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1691
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他国の者がかってに昆布場所に入ることや、採取期間よりも早く昆布を採ったり売買することを禁止
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507
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46
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元禄5年5月1日
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1692/5/1
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尻岸内のアイヌ、松前矩広に拝謁
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47
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元禄5年
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1692
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この年、亀田に水田が開かれるが2、3年にして廃絶「松前蝦夷記」
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48
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元禄5年
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1692
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この年、飢饉のための米価高騰
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49
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元禄6年2月2日
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1693/2/2
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アイヌ人を下僕として使用することを禁止
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50
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元禄7年
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1694
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戸切地(上磯町)にて新田を試作し、藩主に新米を献上する者あり
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