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解題・説明
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江戸時代の舞坂―新居間は渡船によって結ばれていた。明治になってもこれが続き、ここを人々が通行することで、舞坂・新居・白須賀の宿も成り立っていた。ところが明治5年(1872)に浜松―新所間に堀留運河も利用しての通船が開通した。これにより舞坂・新居・白須賀の各宿を通る旅客は激減、関係者は困窮を来すことになった。この時、治河協力社の金原明善は橋の建設を願い出たが、県はこれを認めなかった。これに代わって熊谷三郎馬が地元の人たちの出資も得て浜名社を設立、明治13年(1880)に認可を受けた。こうして浜名橋の建設が始まった。弁天島を中心に2つの堤と4つの橋を建設し、明治14年(1881)12月25日に開通した。これは有料の橋ではあったが、通行する人は多く、経営も順調であった。ただ、木橋であったため、暴風雨などで破損することがあり、また、明治21年(1888)に東海道鉄道が開通したことにより旅客はまたも激減した。明治32年(1899)の暴風雨で浜名橋が落橋すると橋は再建されず、江戸時代と同じ渡船に戻った。浜名湖の渡船が終わるのは昭和7年(1932)になって国道の浜名橋が完成した時であった。この図には浜名橋と並んで東海道鉄道の線路や鉄橋が描かれている。
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