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浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

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浜松市史 四 (オートバイ工業)

 弘 軽オートバイエンジン 浜松市龍禅寺町 鈴木梅雄 軽オートバイ部品 〃  龍禅寺町 斎藤栄一,(株) 川島猪太郎 軽オートバイ部品 〃  相生町 青島鉄工所 青島熊太郎 軽オートバイ部分品 〃  ,軽オートバイ部分品 〃  浅田町 日本工業(株)浜松工場 岩田宗太 軽オートバイ部分品 〃  佐藤町,土屋令二 軽オートバイ部品 〃  馬込町 河出鉄工所 河出清雄 軽オートバイ発動機 〃  元浜町,軽オートバイ部分品 〃  中沢町 和多田幸一 軽オートバイ部分品 〃  西伊場町 菱田鉄工所 菱田  / オートバイ工業
浜松市史 五 (オートバイ産業)

オートバイ産業 【国際レース】  オートバイ産業は戦後における浜松の工業発展を主導した産業であり、,また、高度成長期はオートバイ産業が最も成長した時期で、世界の三大メーカーの本田技研工業(以下、本田)、,六百余りの工場が誕生し、名実ともに「オートバイの街・浜松」になった。,オートバイ産業が立ち直ってきたのは一年後ぐらいであった。,昭和四十年代に入ると、オートバイと軽四輪車の出荷額が逆転し、同四十四年頃ではオートバイは全体の二十%にとどまり / オートバイ産業
浜松市史 四 (ヤマハ発動機)

ヤマハ発動機のオートバイは国内外のオートレースで次々に優勝することによって、その技術の優秀さを証明すると,同時に、オートバイメーカーとしてのヤマハ・ブランドを確立していった。,その後、ヤマハ発動機はオートバイだけでなくボートや船外機の生産にも乗り出していった。,このようにしてヤマハ発動機はオートバイ生産を軸にして多角化へ乗り出していった。,昭和二十年代の後半、浜松地域では三十を超すオートバイメーカーが出現した。
浜松市史 四 (日本楽器)

日本楽器 一方、楽器メーカーであった日本楽器製造が、本格的にオートバイ生産に乗り出したのは昭和二十九年十二月,これらの機械を使って何を生産すべきか、日本楽器製造の『社史』によると、当時様々な検討が行われ、最終的にオートバイ,  【赤とんぼ 小池岩太郎 GKグループ】  日本楽器が、オートバイ生産という全く新しい,日本楽器においても、短期間にオートバイ生産に成功し得たのは、①富士登山オートレースと浅間高原耐久ロードレース,したこと、②デザインを東京芸大の小池岩太郎助教授が率いるGKグループに委託し、色彩やデザインが斬新なオートバイ
浜松市史 五 ([積極的な工場誘致と工場の団地化])

 東洋の奇跡と言われたわが国の高度成長が工業中心の産業発展によって実現したのと同様に、浜松市も繊維・オートバイ・,、自動車部品金属塗装 中部トリカ(株) 33 オートバイ、自動車電装部品 東海電装(株),5 〃 三恵(株) 41 オートバイ、自動車合成樹脂成形加工 宝和工業(株) 63 オートバイ,、自動車幌、座席製造 (株)小沢渡ケンマ 50 オートバイ、自動車バフ研磨 (株)湖南工業,62 オートバイ分解組立梱包 出典:『遠州機械金属工業発展史』より作成
浜松市史 四 ([人力車と国民車の営業])

表2-41 諸車台数の推移 年版 乗用自動車 貨物自動車 オートバイ 自動車計 自転車 人力車 厚生車,②自動車関係の項目は、25年版まで乗用自動車、貨物自動車、オートバイしかなく、23~27年版までは軽自動車,③26年版には、乗用、貨物、オートバイの項目以外に軽自動車619、特殊自動車9、合計1477の記載がある,また27年版のオートバイの数は定義の変更による減少か誤植と思われる。   
浜松市史 五 (輸送機械工業の躍進)

第二に、オートバイ産業は昭和五十年代がピークで、次第に四輪車や船外機・ボート・雪上車などの生産にシフト,【KD生産】  大手三社のオートバイ部門は円高の中でも比較的好調でフル生産を続けた。,好調の背景には①浜松生まれのホンダ、スズキ、ヤマハ発動機の三大メーカーが世界のオートバイの多くを生産し,【オートバイ 四輪車】  表3―14において昭和四十八年から平成元年までの輸送機械の生産動向を見ると,浜松(遠州)の輸送機械工業は、この十数年でオートバイから四輪車へシフトしてきたことが分かる。  
浜松市史 四 (鈴木式織機)

鈴木式織機 鈴木式織機が戦後オートバイ生産を開始したきっかけは、『40年史』(鈴木自動車工業株式会社,織機からオートバイへの転換は生産技術の違いや作業工程の再編を伴うものの、鈴木式織機では比較的スムーズに
浜松市史 五 ([放置自転車への対応])

昭和五十六年七月に市の道路維持課が調べたところ、駅周辺の放置自転車は約六百五十台、これに加えバイクやオートバイ,昭和六十二年七月、浜名郡可美村の高塚駅前には百台ぐらいの自転車やオートバイが放置され、住民の苦情が絶えなかった
浜松市史 五 ([所得の増加と豊かな消費生活・貯蓄・消費者教育])

図2-43 自動車保有台数とカラーテレビ契約件数 【乗用車】  オートバイは昭和二十年代に急速,昭和三十年代には、オートバイやスクーター、電車、バスなどで通勤していた勤労者が、四十年代になって軽自動車,市民の車の消費動向は、原付自転車からオートバイ、そして軽自動車、さらに乗用車というように、より高価な耐久消費財
浜松市史 五 ([深刻な労働力の不足])

これらの外貨によって鉄鉱石等の重工業の原料が輸入され、戦後の技術革新の一翼を担うオートバイ等の輸送用機械器具産業,ところが、織物などの繊維工業の製品出荷額は昭和三十五年にはオートバイなどの輸送用機械器具や楽器に抜かれた,オートバイや軽自動車などの輸送用機械器具産業と楽器産業は高度経済成長期に躍進していった。  
浜松市史 四 (本田技研工業浜松製作所葵工場)

人気を集めたカブ号とは異なり、4サイクル、89cc、3.8馬力、三段変速のエンジンを搭載した本格的なオートバイ
浜松市史 四 (鈴木自動車工業)

コレダ号の名前は、『40年史』によると、「オートバイはこれだ!」から命名されたとのことである。,コレダ号の爆発的な売り上げにより、オートバイメーカーとしての地位を確立していった。
浜松市史 五 ([暴走族と少年犯罪の増加])

深夜オートバイを暴走させ、騒音公害をまき散らすだけでなく、少女を連れ出したり、シンナーを常用するなど非行,集団万引等)、②中高校生女子の万引増加(不自由のない家庭の子女)、③非行の悪質化(独立勉強部屋を溜まり場にオートバイ
浜松市史 五 ([地域工業の成長と構造変化])

特に、繊維を除いた楽器とオートバイが急成長を実現している。,旋盤工作、木工機部品 (有)遠州ネーム製作所 各種ネームプレート ムツミ工業(株) オートバイ,地域産業をリードしたオートバイと楽器は、いずれも加工組立工業としての特徴を持っており、多くの中小零細企業,その特質は、繊維であれ、楽器、オートバイであれ、スケール・メリットを利用して低価格量産化を追求した点にある,そのため、地域内の多くの中小企業は楽器、オートバイといった特定製品の低価格量産化に適合した技術を身に付
浜松市史 五 (刑法犯)

その反面、オートバイ盗は五・三倍、自転車盗は四・九倍、車上狙いは二・九倍と大幅に増加してきた。  ,610 15.2 車上狙い 451 11.2 万引き 433 10.8 オートバイ,   (%) 自転車盗 3011 37.8 車上狙い 1328 16.7 オートバイ
浜松市史 五 ([集団就職の第一陣、遠州織物工業組合へ])

この業界が敬遠される理由には①二交代制の勤務になっているため生活が不規則になること、②楽器やオートバイ
浜松市史 五 (楽器産業)

(3)事業の多角化  戦後の日本楽器の事業多角化はオートバイ市場への参入で始まった。,オートバイは昭和二十八年に開発に着手、昭和三十年二月に「YAMAHA125」を発売した。,同年七月にはオートバイ部門を独立させヤマハ発動機株式会社を設立、本格的にオートバイ市場に参入した。
浜松市史 五 ([浜松商工会議所会館の落成])

商品陳列所ではオートバイ、繊維製品、楽器など浜松を代表する地場産品が陳列され、特設展示場では新製品の発表会
浜松市史 四 ([自動車・リヤカーと牛馬車の時代])

二十年代後半から自動車台数は急増するとはいえ、乗用車、トラック、三輪車、オートバイなどの乗り物はまだ一部
浜松市史 五 ([産業見本市・ハイテク浜松の開催])

ロボットなどの最先端技術製品だけでなく、オートバイ・楽器・繊維の三大産業の展示やイベントも行われた。
浜松市史 三 (タクシー全盛)

この頃輸入オートバイの販売を行なっていた中野勘次郎(のち浜松ダイハツ株式会社を創立、昭和四十九年十二月没
浜松市史 一 (中央的位置)

現在は、といえば、楽器とオートバイがこの中央的位置をたくみに利用して販路を全国にひろげている。
浜松市史 四 (軍需産業 浅野重工業 中島飛行機)

このような産業構造の変化こそが、戦後、いち早くオートバイ産業を勃興させた背景と言えよう。
浜松市史 五 (北口駅前広場)

ルイ・フランセンが手掛け、縦三・四メートル、横二十八・四メートルで「伸びゆく浜松」をテーマにしたもので、ピアノ、オートバイ
浜松市史 五 (テクノポリス)

浜松市がテクノポリス建設に動いたのは、これまでの繊維・楽器・オートバイの三大産業の高度技術化を進めると
浜松市史 四 ([静大工業短期大学部の開学])

[静大工業短期大学部の開学] 【静岡大学工業短期大学部】  楽器や織機の生産が本格化し、また、オートバイ
浜松市史 五 ([全国公募展「浜松わたしのイメージ」と栗原幸彦])

題材としては、中田島砂丘、浜名湖、浜松まつりのほか、三大産業(織物・楽器・オートバイ)などが選ばれ、油絵
浜松市史 四 ([人気の放送劇])

後者の作品には「伸びゆく郷土」として「染色工場(浜松の巻)」、(昭和三十二年)「軽オートバイ工業(同)
浜松市史 五 (FA化 ロボット化 汎用製品)

FA化 ロボット化 汎用製品 【ヤマハ発動機】  大手三大メーカーは円高による経済環境の変化とオートバイ
浜松市史 五 ([雇用の拡大と集団就職])

昭和三十四年当時、浜松公共職業安定所での中卒者への求人申込件数は織布関係の五千人、オートバイ関係の三千人
浜松市史 五 (障害児者施設)

そこで、保護者からの強い要望を受け、義務教育を修了した精神薄弱児への、自動車・オートバイ・楽器・繊維等
浜松市史 五 ([西浜松駅の誕生])

施設として上り・下りの仕訳線のほか、小口混載ホーム、コンテナホーム、オートバイホーム、自動車プールなどが
浜松市史 四 (海外視察)

本田技研工業の本田宗一郎社長は昭和二十七年十一月にアメリカを視察し、技師の河島喜好(後に二代目の社長に就任)はオートバイ
浜松市史 五 (序)

高度経済成長期には多くの産業人の努力により輸送機械や楽器、繊維の三大産業は急速な発展を遂げ、オートバイ
浜松市史 五 ([企業の電子計算機の導入])

オートバイ業界では鈴木自動車が同四十二年八月にNECのNEACを、同四十三年三月には日立ハイタックを導入
浜松市史 四 ([第一回浜松まつりの実施])

オートバイメーカーの社員が仮装してオートバイに乗って行進したり、個人(徒歩隊)で参加する部門もあり、昼間
浜松市史 五 ([ベンチャー企業の出現])

従来、浜松の地域産業はオートバイ、楽器といった低価格量産指向の強い産業によって主導されてきた。
浜松市史 四 ([増える交通事故と信号機])

で交通事故を起こした自動車のうち、最も多いものは小型貨物自動車、次が軽自動車(このころはスクーターやオートバイ
浜松市史 五 ([中小企業の工場団地と工場アパートの立地])

戦後、三大産業と呼ばれた繊維、楽器、オートバイの各産業が成長し、さらに高度成長後も、わが国の主導産業になった,計画では市内に工場を持つ輸送機器関連、金属機械加工業を中心に白羽町に建設する予定だったが、用地取得難とオートバイ
浜松市史 四 ([進学と就職])

男子の就職は中小企業の工場の鉄工関係が多く、特に軽オートバイなどの工場が目立ち、木工関係、店員がこれに
浜松市史 五 ([東名開通、卸商団地と流通拠点の整備])

港を持たない浜松にとってコンテナ基地は繊維、楽器、オートバイの海外輸出の拠点になり、さらなる輸出の拡大
浜松市史 四 ([現代総説(上)])

にもかかわらず繊維産業や楽器産業が、戦後いち早く復興するとともに、オートバイ工業という新しい産業を生み,戦後新たに誕生したオートバイ工業は、戦前から蓄積されてきた工作機械工業や繊維機械工業といった先行産業と,一方、戦後新たに成立したオートバイ産業は、繊維機械工業や工作機械工業などの先行産業の中から生み出され、,これらの産業は、「地域の三大産業」(繊維・楽器・オートバイ)として、戦後の産業構造を特徴付けた。
浜松市史 四 ([オートレース場の建設])

鈴木はオートレースを行うのに必要な小型自動車競走会を設立すべく、地元のオートバイメーカーの団体である浜松,ただ、斉藤静岡県知事は、賭博色を無くし、浜松のオートバイ産業の振興、交通事故防止(市議会の特別委員会の
馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌 (浜松市立曳馬公民館『馬込川が流れるまち:曳馬地区わが町文化誌』 目次)

昭和楽器製造 ハーモニカ】 43 ・機械工業(輸送機械) 【早出町 ヤマハ車体工業 北川自動車 オートバイ
浜松市史 五 ([勤労青少年ホームと勤労青少年の生活の変化])

昭和三十九年に鹿谷町に出来た浜松市立勤労青少年ホームは、当初は集団就職によって浜松に来て、主に紡織、楽器、オートバイ
浜松市史 五 ([静岡県立大学短期大学部と静岡文化芸術大学の開学])

になったのは日本の工業デザイナーの第一人者の栄久庵憲司、彼は日本楽器製造のピアノやオーディオ、ヤマハ発動機のオートバイ
浜松市史 五 ([集団就職者の増加と待遇改善])

季節労務者】  昭和四十六年三月の集団就職で浜松に来たのは八百六十七人、そのうちの約九割が繊維業界、残りはオートバイ
浜松市史 五 (輸送機械工業へ特化)

輸送機械工業の中のオートバイは昭和五十年代後半にピークは過ぎ、その後は減少傾向にあったが、バブル崩壊以降
浜松市史 四 ([依然続く住宅難])

住宅難] 昭和二十年代の後半から三十年代前半は朝鮮特需をきっかけとした綿織物、織機、楽器のほか、新興のオートバイ
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