• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 69件
辞書ファセット
/ 2ページ
浜松市史 五 (テレビ)

テレビ 【教育テレビ】  NHK浜松放送局がテレビ放送を開始したのは昭和三十四年十二月一日であるが,たちにいかにテレビを活用させるかという課題に取り組んだ。,昭和三十五年初めの同校の学区ではテレビ普及率は三十二%、全国的に見ても高率で、テレビによって子供たちには,多くの学校がテレビを購入し、授業に取り入れるようになったのは浜松でNHKの教育テレビが放映を始めた昭和三十五年九月一日,いくつかの学校では「学習に役立つテレビ放送の利用」についての研究、中には「テレビ教材の持ち味を生かした / テレビ
浜松市史 四 (テレビ)

テレビ 【プロレス中継】  一方、テレビは昭和二十八年にNHKと日本テレビが放送を開始したが、浜松,二十九年八月二十二日にNHK名古屋放送局で増力された電波が高いテレビ塔から発射されると、浜松でも鮮明な,映像が受信できる(『新編史料編五』 六交通 史料68)ことが分かり、一部の人たちは高いアンテナを立ててテレビ,なお、浜松でのテレビの本格的な普及はNHK浜松放送局でテレビ放送が開始された昭和三十四年十二月一日以降,ちなみに、昭和三十四年のテレビ普及率は十二・一%であった。 / テレビ
浜松市史 五 ([テレビ放送の開始])

[テレビ放送の開始] 【NHK浜松テレビ】  昭和三十四年十二月一日に待望のNHK浜松テレビ局の放送,このために市が提供した下池川町牛山の敷地に、高さ百二十メートルのテレビ塔や牛山テレビ放送所が建設され、,【ラジオ静岡 浜松テレビ】  NHK浜松テレビ開局に続いて、静岡放送(ラジオ静岡)が昭和三十五年三月一日,テレビ放送を決定した。,【テレビ静岡】  昭和四十三年二月に静岡ユー・エッチ・エフテレビ(十一月テレビ静岡に改称)が設立され / [テレビ放送の開始]
浜松市史 三 (高柳健次郎のテレビ研究)

高柳健次郎のテレビ研究 また同校はテレビジョンの研究をはじめた高柳健次郎(浜名郡和田村安間新田生、東京高等工業学校教員養成所卒,、大正十三年浜松高等工業学校助教授)が在職し、テレビジョンの学校としても知られた。,健次郎は校長関口壮吉の理解ある計らいでテレビジョンの研究に着手し、苦心の末に全電子式テレビジョン伝導実験,やがてその成果が認められて文部省や日本放送協会などからも研究費が交付され、同校内にテレビジョン研究の専用建物,に於けるテレビ研究」『遠州機械金属工業発展史』)。 / 高柳健次郎のテレビ研究
浜松市史 五 ([テレビ局とFMラジオ局の開局])

[テレビ局とFMラジオ局の開局] 昭和四十八年十月、静岡県を放送区域とするテレビ局の開局が認められた,、テレビ静岡に次ぐ民放三局目のテレビ放送局(静岡県民放送、けんみんテレビ)として開局した。  ,【けんみんテレビ 静岡第一テレビ】  けんみんテレビは、テレビ朝日系と日本テレビ系の二局を親局とする,昭和五十三年十二月に県内に第四局の開局が決定、同五十四年に(株)静岡第一テレビ(日本テレビ系)が設立され,これにより、静岡県民放送(平成五年十月静岡朝日テレビと改称)はテレビ朝日系列となった。   / [テレビ局とFMラジオ局の開局]
浜松市史 五 ([テレビの普及と紙芝居の廃絶])

[テレビの普及と紙芝居の廃絶] 【テレビ】  昭和二十九年八月にNHK名古屋放送局からのテレビ画像,が浜松でも受信できるようになり、この年、市内に百二十六台のテレビが置かれた。,同三十四年四月に皇太子御成婚記念パレードのテレビ中継と同年十二月にNHK浜松放送局でテレビ放送が開始されると,テレビの娯楽番組とかち合った時間帯には子供の集まりが非常に悪くなっていた。,その頃、「紙芝居屋さん 街頭教師にもテレビ攻勢」「続々出る廃業者 客が集まらずアメ代も出ない」「テレビ / [テレビの普及と紙芝居の廃絶]
浜松市史 五 ([電化製品・テレビの普及と家事労働の軽減])

[電化製品・テレビの普及と家事労働の軽減] 【三種の神器】  昭和三十年は、前年の十二月に始まった,好況が本格化し神武景気と呼ばれるようになった年であり、テレビ(白黒)・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の,な映像が見られるようになったため、多くの市民がテレビを購入したと思われる。,【カラーテレビ】  なお、昭和四十三年にNHKがラジオ契約を廃止して、白黒テレビ受信の普通契約のほかに,カラーテレビ契約を創設し、カラー放送を大幅に増やしたこと、さらに国内の大手電機産業各社が高性能カラーテレビ / [電化製品・テレビの普及と家事労働の軽減]
浜松市史 四 ([静大工学部の発展])

静岡大学工学部の電子工学研究施設は会場につくられたテレビ・ラジオ館でテレビの公開実験をした。,また、翌年には民間の日本テレビ放送網が大規模なテレビ放送の計画を発表、これに次いで多くの民間放送局もこれに,いよいよテレビ時代の幕開けとなったのである。,これらの動きを踏まえ、日本で唯一テレビの研究施設を持つ静岡大学は将来のテレビの技術者養成のため、工学部,この撮像管により、昭和二十八年三月には東京のNHKのテレビ放送に遅れること一カ月で、浜松地区にテレビの
浜松市史 五 (光産業)

光産業 【浜松テレビ 光電子増倍管】  浜松の光産業のルーツは、テレビの生みの親、髙栁健次郎の愛弟子,であった堀内平八郎が昭和二十八年に創立した浜松テレビ株式会社(前身は昭和二十三年に創立した東海電子研究所,創業以来、同社は工業用テレビなどに使われている光の強弱を電気の強弱へ変える光電変換素子を開発してきた。,浜松テレビが生産する主力の製品は光電子増倍管で全体の六割を占めている。,製品の中にはにせ札の鑑定や宇宙ロケットを追跡する赤外線テレビに使われる赤外ビジコンなどもある。
浜松市史 四 ([浜松地方のラジオ普及率])

[浜松地方のラジオ普及率] 【浜松放送局 ラジオの普及率 テレビの普及】  現在の浜松市東区大蒲町,この現象は、昭和三十四年十二月のNHK浜松総合テレビ開局によってもたらされた、急速なテレビの普及によるものであった,昭和三十六年は、テレビの普及率が五十%を超えた年でもあり、テレビ時代の到来を告げる年でもあった。
浜松市史 五 ([新しい消防庁舎の完成])

新庁舎の特色は、救急指令センターと県下初のテレビカメラ監視装置である。,が市内を監視し、新庁舎の指令室にあるテレビに映し出される仕組みになっている。,リモコン操作でカメラ位置を停止させ、ズームを使ってはっきり映し出すこともでき、二十四時間中二人の職員がテレビ,ラッシュ等により次第に視野が狭められるなどの理由から、昭和四十六年十二月七日中消防署高台派出所に監視テレビ,この装置は同派出所裏に高さ三十メートルの塔を建設し、その上にテレビカメラを備え付けた。
浜松市史 五 ([高柳記念館の誕生])

『静岡大学の五十年』通史(平成十一年六月、静岡大学刊)によれば、NHKテレビの開局祝賀式(昭和三十四年十二月一日,)に際して、市長や市議会・商工会議所・NHKとラジオ静岡関係者の間で、テレビの先駆者髙栁健次郎顕彰が話題,浜松市関係・事業会社関係などから資金が集められ昭和三十六年十月十五日、牛山のNHKのTVアンテナの下でテレビ,建物は鉄筋二階建てで、一階を学生集会室とし、二階を展示室としてテレビの研究に関する記念となるものの展示
浜松市史 四 (電子機械工業)

電子機械工業 【高栁健次郎 堀内平八郎 浜松テレビ 安藤電気 富士電気化学】  産業都市浜松の今後,同校の高栁健次郎がブラウン管によるテレビ受像器を開発したことはあまりにも有名な話である。  ,昭和二十八年九月に浜松テレビ株式会社を設立し、東海電子研究所の業務を引き継ぎ光電管の製造と販売を開始した,以後、ビジコン、テレビカメラなどの生産を始め、昭和三十一年には光電子増倍管の試作を開始し、同三十四年には
浜松市史 五 (教育機器)

教育機器 【浜松市学校教育視聴覚ライブラリー 教育テレビ テレビ OHP】  高度経済成長期に入り,NHK浜松放送局で教育テレビの放映が開始されたのは昭和三十五年九月一日、教育テレビでは東京、大阪、函館,これを受けて浜松市内の学校にはテレビが急速に普及していった。
浜松市史 四 ([自然の遊び場の減少])

[自然の遊び場の減少] 【浜松子供を守る会 浜松市PTA連絡協議会 テレビの普及 紙芝居屋】  地域,の境内から子どもたちを遠ざけたのは、これらの要因のほかに、昭和三十三年の後半あたりから急速に普及したテレビ,テレビの普及は町や村の辻にやって来て子どもたちを喜ばせた紙芝居屋の姿も消していった。
浜松市史 四 ([戦災による移転と学校再開])

[戦災による移転と学校再開] 【浜松工業専門学校 電子工学研究施設 テレビジョン】  浜松工業専門学校,また、戦前からテレビジョンの研究で世界をリードしてきた電子工学研究施設(旧電視研究室)は、三立工業(今,そしてこの年の十月にはテレビジョンの公開試験をするまでに研究は進んでいった。
浜松市史 三 (イの字の記念碑)

イの字の記念碑 いま、NHK浜松放送局の前庭には当日実験に用いた「イ」の字が刻まれたテレビ発祥記念碑
浜松市史 五 ([多様なメディアの登場])

各種証明書の発行や届け出、スポーツ・文化情報の提供、図書館の蔵書検索サービス、コミュニティFMやケーブルテレビ,【浜松ケーブルテレビ】  平成三年八月、浜松市のテレトピア指定、テレコムタウン構想の一翼を担って浜松地区都市型,CATV事業である浜松ケーブルテレビ(平成五年「テレビはままつ」に名称変更)が設立された。
浜松市史 五 ([光産業の発展])

浜松ホトニクス】  昭和二十八年に創立し、光電子増倍管の分野では世界のトップメーカーに成長した浜松テレビ,昭和四十八年には、西ドイツに「ハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ」を設立し、ヨーロッパ進出の拠点となった,さらに昭和五十八年には、従来の光学顕微鏡の性能を飛躍的に高める新しいテレビ受像システムを開発した。,このシステムは電子顕微鏡では不可能だった細胞を生きた状態でテレビに映し出すことができ、しかも従来の画像
浜松市史 四 ([静岡大学工学部])

工学部の学内が開放され、テレビジョンの公開や気象の観測などが、教育学部浜松分校では各種の展覧会、さらに,これは大学発足からしばらく後の昭和二十五年三月三十一日の法律改正によって工学部附属の研究施設となり、テレビジョン
浜松市史 四 ([浜松こども博覧会と浜松市動物園])

[浜松こども博覧会と浜松市動物園] 【浜松こども博覧会 科学博物館 象のいる動物園 観覧車 テレビ、,ラジオ館 テレビの公開実験 浜子 浜松市動物園 空中ケーブル】  昭和二十五年になると、浜松市の戦後復興,テレビ、ラジオ館ではまだ日本では放送されていなかったテレビの公開実験が行われた。,多くの市民はこの時が初めて見るテレビで、大変な評判となり、連日見物人でにぎわった。,このテレビの公開実験は静岡大学工学部の電子工学研究施設とNHK浜松放送局の協力で行われた。  
浜松市史 五 ([東洋歯科大学設置の反対運動])

他方では生活のゆとりが余暇の楽しみへの欲求を生み出し、新聞・雑誌・テレビなどの大衆文化も肥大する。
浜松市史 五 (海外生産)

【浜松テレビ】  産業都市・浜松において独特の発展をしてきた浜松テレビは、昭和五十年代半ばにはエレクトロニクス,また、ヨーロッパにおける販売拠点として昭和四十八年、西ドイツに合弁会社ハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・,浜松テレビの輸出比率(昭和五十五年九月)は三十八%で、年々拡大傾向にあり、そのうち米国向けが六十五%、
浜松市史 五 ([静岡大学工学部の発展])

初代所長にはこれまでテレビの研究に尽力してきた堀井隆が就任、テレビや光電関係、半導体など先端技術の研究,社長は卒業生、鈴木自動車工業(株)(今のスズキ(株))の二代(鈴木俊三)・三代(鈴木實治郎)社長、浜松テレビ
浜松市史 五 ([子供の遊び場])

テレビの普及によって子供たちは下校後や休日には、家でテレビを見る機会が増えていった。
浜松市史 四 ([人気の放送劇])

再び五十%を切るのが昭和三十六年で、この年はテレビの普及率が五十%を超えた年でもある。,このことから分かるように、戦後の昭和二十年代から三十年代前半にかけての、テレビがまだ一般に普及していない
浜松市史 五 ([電線の地中化])

して行うもので、中部電力とNTTが送電線と電話線をそれぞれ独自で埋め込む単独地中化方式、市は有線放送やテレビ,市は将来これまでの電気・通信網に加えてケーブルテレビや光ファイバー網などの新規参入にも対応でき、高度情報化社会
浜松市史 四 ([電化生活])

ったらすぐにでも購入したい耐久消費財の上位三位を〝三種の神器〟と呼び、このころは、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ,昭和三十四年の経済企画庁の消費動向調査では、人口五万人以上の非農家世帯の家電の普及率は電気洗濯機が三十三%、テレビ
浜松市史 五 ([村越一哲の劇作活動])

昭和三十八年には村越作の「調律師物語」がNHKテレビで全国放送された。,前年の昭和六十二年には、NHK銀河テレビ小説「男の子育て日記」(小山内美江子作)に、劇団員が総出演し二十回連続
浜松市史 五 ([新時代に対応する高校])

【NHK学園高等学校】  昭和三十八年四月、NHKのラジオ・テレビを使っての広域通信制高校としてNHK,この高校ではラジオ・テレビの視聴以外に、地方の高校で行うスクーリング授業に出席することが求められた。
浜松市史 五 ([名誉市民の制度])

浜松高等工業学校(現静岡大学)に助教授として赴任、今日のテレビジョンの基礎を確立した。  
浜松市史 五 ([浜松市民会館と浜松市児童会館の落成])

会館落成に際して、ホール(固定席千五百人)では浜松出身のスター鶴田浩二が出演した歌の祭典、NHKのテレビ
浜松市史 四 (陸上競技)

によると、高校三年生の神谷がアジア大会で優勝して表彰されたとき、神谷の父親は近所の家で大勢の人たちとテレビ
浜松市史 五 ([宝石店事件と外国人差別問題])

ブラジルのテレビ局の浜松支局の記者をしていた女性は、同年八月五日、ブラジル人であることを理由に店から追
浜松市史 四 ([遠足と修学旅行])

昭和二十九年に名古屋にテレビ塔が完成すると、テレビ塔や新聞社、名古屋港方面に行く学校が増えた。
浜松市史 五 ([ブルーインパルスと東京オリンピック・万博])

テレビのカラー放映もあって、その映像は見る人の脳裏に刻み込まれ、深い感動を与えた。
浜松市史 五 ([生涯学習総合センターの設置と公民館、放送大学])

その後、平成十年には浜松ケーブルテレビで視聴が可能となり、同十二年六月には全科目のビデオを完備し、ビデオデッキ
浜松市史 四 (化学工業)

ピアノ、オルガン、テレビ、ラジオなどの塗装も手掛け、塗料開発の実験、研究にも取り組んだ。
浜松市史 五 ([所得倍増政策と消費の拡大])

【三種の神器】  国民の消費生活においても「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)や「3C」(カラーテレビ・クーラー・カー
浜松市史 五 ([所得の増加と豊かな消費生活・貯蓄・消費者教育])

また、この高級消費化傾向を端的に表しているのが、テレビの驚異的普及ぶりであったと『広報はままつ』昭和三十四年一月二十日号,図2-43 自動車保有台数とカラーテレビ契約件数 【乗用車】  オートバイは昭和二十年代に急速
浜松市史 五 ([浜松よい映画をすすめる会の活動])

その後、テレビの普及等の理由により、映画館での映画の鑑賞人口が年ごとに減少の一途をたどったことは周知の
浜松市史 四 ([子どもの遊びと楽しみ])

このような遊びや楽しみはテレビが普及する昭和三十年代半ばごろまで続いた。
浜松市史 四 (楠田芳子 楠田浩之)

#160; 図3-94 「涙」浜松ロケ  芳子は、映画のシナリオ作家としての活躍を見せた後、テレビドラマ
浜松市史 五 ([文芸作品の自費出版])

終戦三十周年という事もあって戦争未亡人の一生を歌で綴るという思いがけない反響となって」NHKのラジオやテレビ
浜松市史 五 ([光産業と光産業創成大学院大学])

浜松地域で光産業を牽引してきた企業は、昭和二十八年に創立した浜松テレビである。
いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌 (浜松市立西部公民館『いろはの「イ」:城北地区わが町文化誌』 目次)

」 (学校・子ども) 11 一、二つの「イ」の字 【NHK浜松放送局 西部公民館 高柳健次郎 テレビジョン
浜松市史 五 ([劇団たんぽぽと青少年演劇センター])

に新道場を建設(三十八年に全焼する)し全国的な公演活動を始めており、同三十五年頃から小百合や同劇団がテレビ
浜松市史 五 (主な参考文献)

』 日本電信電話公社東海電気通信局 『浜松の電報と電話』 浜松電報電話局 『明日へ翔ぶ 静岡朝日テレビ,二十年史』 株式会社静岡朝日テレビ 『静岡第一テレビ 十年史』 株式会社静岡第一テレビ ◆第七節 
浜松市史 五 ([青年婦人会館の開館と青年運動])

自由時間の過ごし方では「友人とともに」が約六割で、テレビ、ショッピング、読書、スポーツを抑えて最も多かった
浜松市史 五 (公民館)

コンクリートの頑丈な建物であったため、戦災でも焼失を免れ、戦後は静岡大学工学部の電子工学研究施設となり、テレビ
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 参照データ一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました