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浜松市史 一
(土一揆と徳政一揆)
土
一揆
と徳政
一揆
土民(どみん)の
一揆
を土
一揆
(どいっき)というが、徳政令の発布をスローガンとしておれば,徳政
一揆
とよぶ。 / 土
一揆
と徳政
一揆
浜松市史 一
(享徳の一揆 引馬の一揆)
享徳の
一揆
引馬の
一揆
享徳(きょうとく)三年(一四五四)の徳政
一揆
は、幕府軍と戦って勝利をえたほどである,康正二年一月、引馬の土倉を襲撃した
一揆
については前に述べた。 / 享徳の
一揆
引馬の
一揆
浜松市史 一
(国人と一揆)
国人と
一揆
関東十か国は、鎌倉府の支配下にあった。,これらの武士を国人(こくにん)といい、この体制を
一揆
(いっき)とよんだ。,南北朝に活躍した東国の国人は、ほとんどこの
一揆
という形で団結しており、武蔵の白旗(しらはた)
一揆
・八文字
一揆
,・南
一揆
などとくに有名である。,鎌倉府ではこの
一揆
たちを味方につけて、大豪族たちと対抗する政策をとった。 / 国人と
一揆
浜松市史 一
(一揆と土倉)
一揆
と土倉
一揆
の目標にされて大損害をうけた土倉は、すぐにたち直っている。,しかも嘉吉の
一揆
のあとには、利息をあげ毎月払とし、三か月で流質(ながれじち)にすることにしたが、それでも,また徳政
一揆
がおこるという悪循環をくりかえした。 ,嘉吉三年にまた徳政
一揆
があり、そののち毎年といってもよいほど土民
一揆
がおこった。 /
一揆
と土倉
浜松市史 一
(嘉吉の一揆)
嘉吉の
一揆
嘉吉(かきつ)元年(一四四一)七月、赤松満祐を追討するため、山名持豊らの大軍が京都を出発,すると近江(滋賀県)で
一揆
が突発し、守護六角満綱はすぐ無条件で要求におうじた。,近江の
一揆
に呼応して、京都付近で大規模な
一揆
がおこる。,数万の
一揆
は連日京都にせめこんで徳政を要求した。,そして
一揆
は、かってに土倉や酒屋におし入り荒しまわった。 / 嘉吉の
一揆
浜松市史 一
(土一揆発生の地帯 土一揆の性格)
土
一揆
発生の地帯 土
一揆
の性格 土
一揆
の発生した地帯は、正長元年(一四二八)から文正元年(一四六六),土
一揆
の歴史的な性格について、いろいろの学説がある。,しかし
一揆
は局地的であっても中央権力の所在地でおこり、それを脅威する力をもっていた。,土
一揆
は複雑な地帯に複雑な条件のもとに発生したので、直線的に解釈することはできない。 / 土
一揆
発生の地帯 土
一揆
の性格
浜松市史 一
(永享の一揆)
永享の
一揆
永享(えいきょう)元年(一四二九)播磨(はりま)(兵庫県)守護赤松満祐の領国で、矢野荘(,鎮圧されたが、政治的な
一揆
である。こののちも各地に小規模な
一揆
がおこった。 / 永享の
一揆
浜松市史 一
(文明の国一揆)
文明の国
一揆
【農民の力】応仁・文明の乱で、京都での休戦は成立したが、大乱の口火となった両畠山氏の戦,この国
一揆
(くにいっき)は幕府の権力が弱体化しているうえに、細川政元や畠山政長らの工作などの条件にささえられていた,これが山城
一揆
である。,しかしこれをささえていた政治的な条件が変化し、
一揆
のうちには荘園を自分のものにしようとする小勢力があり,、このむすびつきが破られ、この
一揆
は八年ののち解散した。 / 文明の国
一揆
浜松市史 ニ
(一揆の解散)
一揆
の解散 事態を憂慮した井上家では郡奉行高松佐七右衛門などを派遣して、百方農民の説得にあたらせたが,あって夜半にいたって植松村(当市植松町)付近に集結した農民をようやく解散させることができ、かろうじて
一揆
/
一揆
の解散
浜松市史 一
(正長の徳政一揆)
正長の徳政
一揆
正長(しょうちょう)元年(一四二八)は、凶作のうえに悪病がひろがった。,土民
一揆
(どみんいっき)である。すると京都周辺の土民がかってに徳政だといい、債権者に証文をださせた。,十一月には、京都市内に土
一揆
(つちいっき)がおこり、在京守護の配下も加わっていた。,奈良でも馬借(ばしゃく)という交通労務者の機動部隊を先頭にして、土
一揆
が土倉(どそう)をおそい、興福寺,土民
一揆
は各地に飛び火して、その地方に徳政令がだされた。 / 正長の徳政
一揆
浜松市史 三
(社会不安と一揆)
社会不安と
一揆
【笠井
一揆
】しかし、領主交代によるこのような地方行政機関改変の不安定のせいもあってか,それに天竜川出水被害による民心の動揺もともなって二年十一月には笠井村方面で乱妨人およそ六百人が「百姓
一揆
打壊騒動,)・長嶋村(二軒)・宮口村(三軒)が「打倒」され、三年二月には中泉方面(現磐田市)で「五拾ヶ村之百姓
一揆
騒動 / 社会不安と
一揆
浜松市史 一
(一揆の主体)
一揆
の主体 【惣 馬借】
一揆
の主体は、侍分(さむらいぶん)を中心に農村を「惣(そう)」という自治組織 /
一揆
の主体
浜松市史 ニ
(一揆の原因)
一揆
の原因 ところで、なぜこのような
一揆
が起こったのであろうか。,弘化三年百姓
一揆
関係図 /
一揆
の原因
浜松市史 ニ
(一揆の中心)
一揆
の中心 【半六】事件のすべてが落着したとみられる三月二十四日のこと、『高林家日記』によれば組頭・,その庄屋批判の先頭にたった半六なる人物は、さきに
一揆
の小前惣代として戦い、手鎖村預けの処分をうけた人物,けの処分をうけた伝兵衛もまた、弘化三年(一八四六)閏五月十日夜、当時の勧農世話掛庄屋六軒を打ちこわした
一揆
/
一揆
の中心
浜松市史 ニ
(一揆の影響)
一揆
の影響 表面上この
一揆
は完全に失敗に終わったのであろうか。 /
一揆
の影響
浜松市史 一
(蒲御厨の徳政一揆)
蒲御厨の徳政
一揆
康正元年(一四五五)は旱魃であった。,
一揆
の首謀者は国人で、蒲の代官政所の石田義堅を味方につけ、大河内氏の勢力を不快に思う守護代を説得して勝訴 / 蒲御厨の徳政
一揆
浜松市史 一
(党と一揆 守護大名の位置)
党と
一揆
守護大名の位置 そして嫡子だけが所領を相続し一家を代表し、庶子は嫡男と主従の関係をもつことになった,党(とう)とか
一揆
(いっき)がこれである。 / 党と
一揆
守護大名の位置
浜松市史 ニ
(五月の一揆)
五月の
一揆
【高林家】閏五月十日、この日は夜になっても暑さが去らず、有玉下村庄屋高林伊兵術はいつまでも / 五月の
一揆
浜松市史 ニ
(治安対策)
治安対策 第一の時期は井上藩が入封してただちに弘化三年の
一揆
と、それにつづく領民の種々の要求に示された,そのため弘化三年の
一揆
が水野藩にたいしてなされたにもかかわらず、その主謀者の詮議は井上藩の手によって引,藩は
一揆
については詮議の厳しさを示威しただけで、具体的には何らの成果もあげることなく、嘉永三年十二月、,
一揆
の詮議をうち切らざるを得なかった(『高林家日記』)が、藩は郷村におこった不穏の動きにたいして、極力
浜松市史 ニ
(藩の苦慮)
というのもわずか一年半前の弘化三年六月の
一揆
で、農民たちが代官清水帯刀の首を貰いうけたいと、要求したのときわめてよく,今回の張り紙をみた者、その噂を聞いた者の誰もが、弘化三年六月の
一揆
の情景を思い浮かべたにちがいない。,海老沢と相曽の二人は、この
一揆
の農民たちを説得し解散させた生々しい体験を持っていた(『破地士等窠』)。
浜松市史 一
(徳政)
これが
一揆
をおこした。,【町は免除】大名は発展をつづけ、分国の中心である町に
一揆
のおこることはさけたい。,ただし
一揆
が実力で奪いとるのは論外である。大名は都市において、矛盾した政策をつかいわけている。
浜松市史 一
(細川氏のあらそい)
【一向
一揆
】天文元年(一五三二)六月に一向
一揆
がおこり、晴元の老臣三好元長も殺される。,
一揆
は八月一日晴元を包囲したので、晴元は日蓮宗にたのんだ。,そして二十四日、近江守護六角定頼・晴元の兵・叡山の僧兵・法華宗
一揆
などは、山城山科(京都市東山区)の本願寺,同五年正月、山城山科に本願寺道場が再興され、八月将軍義晴が証如の罪をゆるすと、近畿地方の一向
一揆
はしだいにしずまった,、六角定頼と叡山の僧兵が法華宗門徒と戦い、京都の二十一か寺を焼きはらい、追放してのち、この地方の宗教
一揆
浜松市史 一
(真宗)
【三河の一向
一揆
】本願寺勢力は、寛正(かんしょう)二年(一四六一)ころから蓮如に接近した上宮(じょうぐう,この組織は、戦国大名の農民支配にも抵抗することになり、一向
一揆
はおこらざるをえない。,永禄六、七年(一五六三-一五六四)家康の分国統一が進むのに対決して一向
一揆
がおこった。
浜松市史 ニ
(安政五年の不作)
【安政の
一揆
安政五年 有玉組合村】早速維兵衛ら村々の庄屋が杉山へかけつけ、農民たちに説得を試みたが、,この
一揆
は村役人を越えて直接藩権力にむかったものであるが、有玉下村の百姓半六ら一般農民は自分たちの調査,と、村役人から藩に提出した内容とを調整し、村役人を
一揆
側にまきこむ形をとった。,ハ小作之もの願之義難立候」(『高林家日記』安政六年正月二十六日・二十八日条)といい渡し、二月三日この
一揆
浜松市史 一
(鎌倉武士の一族)
【
一揆
】党の中には、その成員がそれぞれ平等な立場で、共和的な団結をするものがあり、それは
一揆
(いっき),一族の団結とちがい、党や
一揆
では、一人の人物が、とくに全体を統率することはない。
浜松市史 ニ
([家康の三河国統一])
[家康の三河国統一] 【一向
一揆
】松平家康が、力強く第一歩をふみだそうとしたまえに、きびしい試練がまちかまえていた,三河におきた一向
一揆
である。
浜松市史 ニ
(大沢氏降伏)
【気賀
一揆
】「気賀
一揆
」の蜂起である。
浜松市史 ニ
(村役人の自重)
はしづめ)村庄屋十右衛門とともに、中瀬村(浜北市)の兼帯庄屋をやめさせてもらいたい、と願い出たのも前年の
一揆
,四月になって再度、代官所より下大瀬村へ立ち入るよう命ぜられたが、弘化三年の
一揆
の落着していないのを理由
浜松市史 一
(中世編)
五四二 社会のすすみ 荘園制の解体 産業 交通 都市 土
一揆
,と徳政
一揆
第五節 宗教と文化 五六四 宗教 文化
浜松市史 一
(貴族方の内紛)
一三四一)のころ、経忠はふたたび京都に帰り、藤原氏の子孫という関東の豪族小山氏・小田氏らによびかけ藤氏
一揆
浜松市史 ニ
(井上藩政と領民)
と一般農民と若者と、またその名も知れぬ人々と、それぞれ立場も違いながら、つねに民衆が有利になるよう、
一揆
浜松市史 一
(室町時代と浜松)
引馬の市では土倉も営業し、土
一揆
の対象にもなった。下人(げにん)が市に逃げこんだこともある。
浜松市史 一
(義政の政治)
義政は毎年のようにおこる徳政
一揆
に対しても効果的な対策を考えず、分一(ぶいち)徳政によって幕府の収入をはかるようになった
浜松市史 ニ
(家康遠江に侵入)
しかし元本坂(引佐郡三ケ日町)で浜名頼広父子・後藤実久(本坂住人)らが武田信玄と通謀し、気賀の郷民に
一揆
浜松市史 ニ
([浜松城下をめざす])
[浜松城下をめざす] はたして六月二十二日、こんどは遠州灘沿岸の村々を中心として再度の
一揆
が勃発した,【六月の
一揆
】ここにいたって農民の憤激はその極に達し、二十二日の打ちこわしとなったのである。
浜松市史 三
(浜松住民の熱望)
わると、各地において宿望貫徹の好機至れりとする声がおきたが「就中浜松市民(ママ)ノ如キハ人情期セズシテ同
一揆
浜松市史 ニ
(寺嶋八幡地の要求)
寺嶋八幡地の要求 ところが、いよいよ水野家の浜松引揚げという日取りがきまると、一応鎮まっていた
一揆
が
浜松市史 一
(三好氏の台頭)
元長が一向
一揆
のため自殺すると範長がつぎ、老臣の松永久秀が助ける。
浜松市史 一
(惣中の組織 地下掟)
にすみついている有力者の国人は、「惣国」とか「惣中」といい、外部からの武力や勢力の侵入に反対する組織をつくり、また
一揆
浜松市史 ニ
(御用金返済要求)
この結果は不明であるが百姓
一揆
の圧力を背景として、きびしく要求が出されたのである。
浜松市史 ニ
(目次)
農兵隊 士民一体の海防 第五節 水野氏の移封と弘化三年の百姓
一揆
, 水野氏の移封 怒る領民 浜松城下をめざす
一揆
浜松市史 ニ
(若者組取締)
取締令が出されたが、これらのことは井上藩が、水野藩にたいする浜松領内民衆の怒りの高まりと、先年の激烈な
一揆
細江町史 通史編中
(細江町史 通史編 中 目次)
地理的考察 167 2 攻防は永禄12年3月 169 3 両軍の人数について 170 4 家康
一揆
衆,鉄灯籠 263 第7章 吉川本町(気賀)の成立 第1節 堀川城とその人物群 265 1 気賀
一揆
, 第3章 打ち続く災害 第1節 宝永の災害 344 第2節 藺草神社 345 第4章 農民
一揆
,宝永の地震への対策 350 第2節 天保の飢饉 351 嘉永・安政の地震 352 第3節 農民
一揆
浜松市史 ニ
(禁令通達)
内容 1 弘化4.7 大念仏停止,太神楽も40日以前に届出 弘化3年の
一揆
浜松市史 一
(守護大名と戦国大名のちがい)
【家臣団のちがい】一、守護大名の家臣団は、地縁的な同族結合としての党とか
一揆
などという国人が多い。
積志の流れ今むかし:わが町文化誌
(浜松市立積志公民館『積志の流れ今むかし:わが町文化誌』 目次)
古代のころ 12 古墳を見学して 18 3、古代から近世 21 積志と殿様 21 郷倉と百姓
一揆
浜松市史 ニ
(城下の不穏)
城下の不穏 ところで、こうなると浜松城下も物情騒然として、明日は
一揆
の集団が城下に侵入し、水野氏の仮役所
天竜市史 上巻
(天竜市史 上巻 目次)
六五六 無礼塩一件 弘化期の塩出入一件 船明村庄屋の不正 増助郷と代助郷 熊村の無宿人騒動 鹿島分一
一揆
,二俣蓑かぶり
一揆
第三節 幕末社会の不安と動揺 六八七 異国船渡来と開国貿易 米価の高騰 長州征討
太陽と潮風五島遠州浜:わが町文化誌
(浜松市立五島公民館『太陽と潮風 五島遠州浜:わが町文化誌』 目次)
(三)波小僧 170 (四)いい伝え 172 二 歴史上の逸話 174 (一)百姓
一揆
龍山村史
(龍山村史 目次)
四四一 (六)疫病 四四二 第六節 幕末の世情 四四五 一 幕藩制社会の動揺 四四五 二 分一
一揆
,と万延元年二俣騒動 四四六 (一)分一
一揆
四四六 (二)万延元年二俣騒動 四五七 三 万年屋騒動
/ 2ページ