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浜松市史 三
(第三十五国立銀行)
浜松市史
三
/ 第
三
十
五
国立銀行 【二十二年 行在所 十一年】第二十八国立銀行も明治二十二年一月第
三
十
五
国立銀行と合併,天皇は十一年十月
三
十一日篠原(しのはら)村の鈴木喜平宅で小休止、午後四時四十
五
分着。,【金原明善】そして八時発、九時
七
分中野町村治河協力社で金原明善を謁見、十時出発、天竜川を渡られたのであった,なお、この第
三
十
五
国立銀行も
三
十年には
三
十
五
銀行(頭取気賀半十郎)となって普通銀行になった。,静岡第
三
十
五
国立銀行浜松支店 当座預金通帳 表紙 / 第
三
十
五
国立銀行
浜松市史 三
(池谷七蔵)
浜松市史
三
/ 池谷
七
蔵 池谷
七
蔵(安政二年浜松大工町生、大正十一年十月二十二日没、六十八歳)、幼くして父を失い伯父,【形染機械】その
七
蔵が形染機械の考案に着手するようになったのは、
三
十一年
五
月山東に在住時代に染色業に関係,その結果、
三
十二年
三
月専売特許を得たのが特許片面形糊付機であった。,日本形染株式会社と改称したのちも、尚機械の改良に力を尽し
三
十四年
五
月には両面形糊付機を発明特許を得ている,【池谷式織機】
七
蔵はまた織機の改良を依頼されたのを機として同社を退き、
三
十八年四月天神町村馬込に日本織機株式会社 / 池谷
七
蔵
浜松市史 三
(七科約説)
浜松市史
三
/ 上下二巻より成り、いずれも菊判5号一段組で、上巻は明治十一年
五
月版で九百四十ページ、下巻は十二年四月版,で付録付きの千百
七
十ページ、上巻に二百
五
十
七
個、下巻に二百二十個の木版画が挿入されていた。,上下合わせて八円
三
十銭、当時としては高価であったが全国で評判となり、長く医学界で使用された(内田六郎『,
七
科約説』)。,
七
科約説 /
七
科約説
浜松市史 三
(第三回)
浜松市史
三
/ 第
三
回 大正
七
年九月
五
日に第
三
回の市会議員総改選。定員
三
十名、またまた政友会系の勝利であった。,政友会系二十二名(一級一〇名、二級
七
名、
三
級
五
名)、非政友会系八名(二級
三
名、
三
級
五
名)、議長は中村忠
七
/ 第
三
回
浜松市史 五
([終戦五十年の記念誌])
浜松市史
五
/ [終戦
五
十年の記念誌] 平成
七
年(一九九
五
)は、昭和二十年八月十
五
日の太平洋戦争終結からちょうど
五
十年目,この平成
七
年の段階で、その資料の多くが一冊にまとめられ刊行されることになったものである。,『戦災史資料』はB5判、本文二百
五
十
三
頁より成り戦災史調査資料、浜松市空襲状況、管内昭和二十年六月十八日戦災対策概況,このうち戦災史調査資料は、市内の国民学校(二十
三
校)、旧制の公私立の中学校・高等女学校・実業学校(十
三
校,また、平成
七
年八月には終戦
五
十年を記念して浜松市立中央図書館において浜松戦災資料展が開催されている。 / [終戦
五
十年の記念誌]
浜松市史 五
([学校週五日制へ])
浜松市史
五
/ この授業
五
日制は一日
七
時限で週
三
十
五
時限、土曜日は職業指導・クラブ活動、ホームルーム・大掃除というもので,八幡中学校は授業
五
日制について
七
月に評価を行い、十二月には授業
五
日制の研究がまとめられた。,【学校
五
日制】 それから約二十二年、昭和四十
七
年に日本教職員組合が学校週
五
日制を提起、翌年文部省も,こうして、平成
三
年十二月、文部省の調査研究協力者会議は同四年度から導入する学校
五
日制の実施計画(中間報告,そして、同
七
年四月二十二日からは第四土曜日も休業となり、同十四年四月からは完全学校週
五
日制が実施された / [学校週
五
日制へ]
浜松市史 三
(後任市長問題 七代市長 第七回 市議選)
浜松市史
三
/ 後任市長問題
七
代市長 第
七
回 市議選 後任市長の選考については政友倶楽部・昭和会・清交会の
三
者の意見,【高柳覚太郎】しかし再出馬を要請された中村陸平は立たず、宮本甚
七
(前商工会議所会頭)・長延連(浜松中学第
三
回卒,清交会の推薦する鈴木幸作(貴族院議員)の決戦投票となり、その結果十六票対十四票で高柳覚太郎が昭和八年
三
月十九日
七
代目,しかし市会は翌九年
五
月高柳市長の不信任案を議決、高柳市長もこれに対抗して県参事会にこれの取消を求め八月末,当選者
三
十六名、岩崎豊・井上剛一・鈴木幸作などがあった(市制
七
回目、昭和二回目)。 / 後任市長問題
七
代市長 第
七
回 市議選
浜松市史 五
(第三セクター)
浜松市史
五
/ 第
三
セクター これを受けて、同会は昭和六十一年一月に第
三
セクターの新会社を設立して存続させることを決定,、さらに同年
三
月には二俣線特定地方交通線対策協議会が第
三
セクター方式による鉄道存続を正式に決定した。,【佐久間線】 一方、工事継続が危ぶまれていた佐久間線は昭和
五
十六年に工事が凍結された。,同六十
三
年に二俣―横山間の約
七
割の工事を終了したのみで建設は中止となった。 / 第
三
セクター
浜松市史 五
([三方原用水の完成])
浜松市史
五
/ [
三
方原用水の完成] 【
三
方原用水事業】 昭和二十
五
年に制定された国土総合開発法により浜松地域は,これによると
三
方原用水は秋葉ダムから取水、毎秒一六・
七
一トン(一日最百四十四万
三
千トン)の水が天竜市・,工業用水は市内およびその周辺部の工場へ一立方メートル当たり四円
五
十銭で給水されることになった。,このような計画により、昭和
三
十
七
年二月十八日に着工された
三
方原用水事業は
五
年
七
カ月の歳月と
五
十
七
億
五
千万円,(団体営事業まで含めた総事業費は約百
七
十億円)の事業費を投じ昭和四十二年八月二十八日に通水にこぎ着けた / [
三
方原用水の完成]
浜松市史 五
([三大産業の変化])
浜松市史
五
/ つまり、この十
七
年間で
三
大産業は一強二弱の傾向が表れてきた。,工業出荷額の構成比で見ると、繊維工業は昭和
五
十年に十一・一%の割合を占めていたが、十
五
年後の平成二年には,楽器産業が含まれるその他の製造業は、昭和
五
十年で二十一%の割合を占めていたが、平成二年には十・
五
%に減少,これに対し輸送機械工業は
三
十・八%(昭和
五
十年)から
三
十
七
%(平成二年)にその割合を拡大し、主として輸送機械,の部品等を製造する機械金属
七
業種(鉄鋼・非鉄金属・金属製品・一般機械・電気機械・輸送用機械・精密機械) / [
三
大産業の変化]
浜松市史 三
(田中五郎兵衛)
浜松市史
三
/ 田中
五
郎兵衛 【鍋屋】田中
五
郎兵衛は田町の金物商の鍋屋の人。,庄
七
が小松の袴田勘左衛門宅で罹病するとこれをひきとり、町医木村玄斎を招いて看病した。,文久
三
年八月庄
七
が死亡すると、
五
郎兵衛は浜松社中と語らって田町玄忠寺に埋葬した。,葬儀の参列者には前記の人々のほか上石田村松島弥右衛門・笠井村嘉右衛門・都田村孫四郎などがあった(明治
三
十九年安居院庄
七
頌徳碑 / 田中
五
郎兵衛
浜松市史 五
([三遠南信自動車道の建設])
浜松市史
五
/ これより先昭和六十年
五
月には、静岡、愛知、長野
三
県と関係市町村が
三
遠南信道路建設促進期成同盟会を結成し,そして、同年
七
月に国土庁は
三
遠南信地域整備計画調査を国土総合開発事業調整費の対象事業とした。 ,平成
五
年度には愛知県東栄町から引佐町(二十一キロメートル)の第二東名に至る
三
遠南信道路の一部である
三
遠道路,また、同年夏には国土、通産、建設等
五
省庁により
三
十
五
の事業提案からなる
三
遠南信地域整備計画調査の結果が,本格的な着工は平成十
七
年六月となった。 / [
三
遠南信自動車道の建設]
浜松市史 三
(遠州五大問屋)
浜松市史
三
/ 遠州
五
大問屋 それのみでなく木俣千代八・外山吉十郎のような笠井商人の中からも浜松へ移るものも現われ、,その中心街は板屋町で、なかでも木俣千代八の木俣物産株式会社(浜松鍛冶、創立明治
三
十二年)、鈴木初蔵のマンボウ,商店(浜松田、創立大正
七
年)、加藤千之助の甲州屋(浜松板屋、加藤商事株式会社、創立大正
七
年)、外山吉十郎,と平野太蔵の外山商店(浜松板屋、外山商事株式会社、創立明治
三
十四年)、加藤伊久蔵・清
七
兄弟の丸加商店は,遠州の
五
大問屋と呼ばれた。 / 遠州
五
大問屋
浜松市史 三
(吉田冠三)
浜松市史
三
/ 吉田冠
三
浜松地方の人形芝居の師匠としては、吉田冠
三
が知られている。,冠
三
は江戸末期の人形遣い、大阪彦六座長辰
五
郎の実子で放浪のあげく、浜松新町八四の朝比奈善八方の控家に住,み、池田村などに人形を教え明治
三
十六年
五
月、
五
社小路で没したという(
七
十四歳、墓蓮華寺。,久野仙雨『吉田冠
三
』)。 / 吉田冠
三
浜松市史 五
(三方原地区土地改良事業)
浜松市史
五
/ 昭和
三
十
三
年
七
月、天竜東
三
河特定地域総合開発計画の一環として秋葉ダムが完成、同
三
十
五
年天竜川(秋葉ダム,かんがい排水事業の受益面積は
五
千六・八ヘクタール(同
三
十九年当時)、ほ場整備事業の受益面積は四千四百
五
十
七
,ほ場整備事業では十
三
の工区が作られ(当初は十
五
区)、このうち浜松市内の工区は八つで、組合員数は約八千八百人,最大規模の
五
区(
三
方原町、根洗町、初生町及び浜北市・引佐郡細江町の一部)は昭和四十
五
年に設立され、換地業務,最後まで残っていた工区も同六十二年には第二工区の伊佐見、第
七
工区の庄内、第十一工区の神久呂の完工で、市内 /
三
方原地区土地改良事業
浜松市史 五
([昭和三十八年時点の医療環境])
浜松市史
五
/ 、泉町)、佐鳴湖病院(九
七
床、精神、富塚町)、神経科浜松病院(二四
五
床、精神、広沢町)、朝山病院(
五
四床,右に挙げた市内十
三
箇所の大病院のほかに、市内の医療機関の現況は前年の昭和
三
十
七
年
七
月末には、診療所百六十九,右は昭和
三
十八年二月時点の市内医療環境の現状と課題であるが、『浜松市史』四において昭和
三
十四・
三
十
五
年頃,浜松社会保険病院では昭和
三
十
七
年十月に第一期工事が完成し、地下一階地上四階の病棟を新設し六十
七
床増加した,【浜松鉄道病院】 ところで、昭和
三
十八年二月時点の『広報はままつ』とは別に、『静岡新聞』(昭和
三
十八年
七
月
五
日付 / [昭和
三
十八年時点の医療環境]
浜松市史 五
(第三次浜松市総合計画)
浜松市史
五
/ 委員会は議会代表や市の各界代表、市
三
役など
七
十人で構成され、多くの市民の意見も取り入れて十月をめどに基本構想,向け、次の
五
つの大綱を掲げた。,
五
つの大綱とそれを実現する主な施策を記してみよう。 ,の健康づくり 勤労者の福祉の増進 消費生活の安定と向上 第
五
,までの基本計画が決まり、総額で約二千九百
七
十
三
億円に上る事業が行われていった。 / 第
三
次浜松市総合計画
浜松市史 三
(明治三十一年度)
浜松市史
三
/ 明治
三
十一年度 【浜松商業学校】明治
三
十一年度 紺屋町の町役場土地の払下、本町電灯事業臨時調査委員の,【鶴見信平】町長は中村忠
七
が二期勤めたのちは小西四郎(明治
三
十
五
年二月二十
七
日就任、
三
十六年二月十二日辞職,)・竹山平八郎(明治
三
十六年二月二十六日就任、
三
十八年
五
月九日辞職)とうけつがれ、鶴見信平がそのあと二期,(明治
三
十八年
七
月二十
七
日就任、四十二年
七
月二十
五
日満期、四十二年
七
月二十
五
日再選就任、四十四年
七
月一日市制施行解職,)勤務することになる(町長の在任期間は大正十
五
年発行『浜松市史』による)。 / 明治
三
十一年度
浜松市史 五
([水野欣三郎の彫刻])
浜松市史
五
/ [水野欣
三
郎の彫刻] 【水野欣
三
郎】 彫刻家水野欣
三
郎の、戦後の活動については、『浜松市史』四において,平成四年、浜松市美術館において水野欣
三
郎展が開かれた際作成された図録『思索する彫刻家 水野欣
三
郎展』巻末,、昭和
五
十六年) ・賀茂真淵像(浜松市立賀茂真淵記念館、昭和
五
十九年) ・空華(Uホール、,浜松市関係では、浜松市文化財審議会委員(昭和
三
十
五
年)、浜松市美術館協議会委員(同四十六年)、浜松市伊場遺跡整備委員会委員,なお、水野は昭和二十
七
年、半田山竜泉寺(曹洞宗、半田町)の住職井上義衍老師と出会って以来、深く禅と関わっており / [水野欣
三
郎の彫刻]
浜松市史 三
(七月の空襲 艦砲射撃)
浜松市史
三
/
七
月の空襲 艦砲射撃
七
月一日は市制記念日であったが何の催しもなく、敵機P51の二十
五
機が市内を機銃掃射,
七
月九日は艦載機(かんさいき)が
三
方原飛行基地を、二十四日は早朝から艦載機約
七
十機が、高射砲隊(天竜川右岸中,ノ町方面に布陣)の弾幕を通りぬけて高塚駅・遠州織機・鈴木織機・日蓄工場等の軍需工場を、二十
五
日も戦闘機二機,めずらしく晴れた夜空に八時
五
十分ごろから敵小型機二機が浜松の上空で旋回を繰り返していたが、九時四十
五
分 /
七
月の空襲 艦砲射撃
浜松市史 三
(明治二十五年度)
浜松市史
三
/ 明治二十
五
年度 明治二十
五
年度 町長は沢田寧の辞任により中村藤吉(明治二十
五
年
五
月二十八日選任、同年六月
七
日辞職,)から小野江善八(明治二十
五
年六月八日選任、同年六月二十日辞職)の当選辞職とめまぐるしく交代、渥味(あつみ,)正人(明治二十
五
年十月二十六日就任、二十八年
三
月
三
十一日辞職)が就任した。,また
五
社諏訪両社境内を公園とすることを可決した。 / 明治二十
五
年度
三ヶ日町史 下巻
(三ヶ日町史 下巻 目次)
三
ヶ日町史 下巻 / 一〇
三
四、産業の発達 一〇
七
五
、警察施設の充実と、消防組の発足 一一
五
第二章 明治後期,の発達 一六六
五
、柑橘栽培の発達 一
七
一 第
三
節 交通の発達 一
七
九 一、浜名湖の交通 一
七
九,二
三
五
三
、タクシーと乗合自動車 二
三
七
第四節 経済恐慌と社会運動の激化 二
三
九 一、不況の,、方言・共通語・標準語
七
〇六 二、方言の区画
七
〇
七
三
、アクセント
七
一〇 四、
三
ヶ日方言を,尋ねて
七
一
三
附
三
ヶ日町史年表 一八六八(明治元年)以降
七
三
三
資料
七
八
三
あとがき /
三
ヶ日町史 下巻 目次
浜松市史 五
([三遠南信地域との様々な交流])
浜松市史
五
/ 『広報はままつ』の創刊号(昭和二十
七
年九月十
五
日発行)のトップ記事はこの天竜東
三
河地域の総合開発計画であった,【
三
遠南信トライアングル構想】 昭和
五
十九年
七
月二十日、浜松市で開かれた中部経済連合会の静岡地域会員懇談会,、宝飯地区二市四町、新城南北設楽一市八町村)、南信州(飯伊地域一市十
七
町村)から
五
十九市町村長と六十
三
商工会議所会頭,『中日新聞』(平成六年
七
月十
五
日付)は
三
遠南信自動車道草木トンネルの開通の見出しに「3県新時代幕開け」,浜松市と飯田市との中学生・教員の交流事業は平成
五
年から始まり、豊橋市と飯田市のスポーツ交流は平成
七
年から / [
三
遠南信地域との様々な交流]
三ヶ日町史 上巻
(三ヶ日町史 上巻 目次)
三
ヶ日町史 上巻 / の交通路 一
五
二 二、宗教 一六
七
三
、美術 一
七
六 四、文学 一八
五
第
三
章 中世 一九
五
,二四一 4 庭園 二
五
三
5 城址 二
五
七
第四章 近世 二
七
一 第一節 江戸時代の
三
ヶ,日 二
七
一 一、検地石高と領主の変遷 二
七
一 二、大谷 近藤家 二八六
三
、幕末期の
三
ヶ日
三
〇, 文化
三
五
七
一、神社と寺院
三
五
七
二、教育と学問
三
六
五
三
、建築・美術・庭園
三
七
〇,四、芸能・武術
三
七
八
五
、其の他
三
八
五
第四節 生活と習俗
三
八
七
第
五
節 伝説 四一一 /
三
ヶ日町史 上巻 目次
浜松市史 三
(松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社)
浜松市史
三
/ 松島授
三
郎 西遠農学社
三
遠農学社 松島授
三
郎(明治
三
十一年没、六十
三
歳)、豊田郡羽鳥村の人。,【十
五
年】八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を社長とする農学誠報社を設け村民の風俗,の矯正に力を尽したが、十
五
年居村に西遠農学社を創立、夜学部を設け、自弁で農学の研磨を主とし、かたわら道学,十九年西遠農学社本館を設立、その説を聞くものも次第に増し、遠州において
七
郡、
三
州において二郡に及んだ。,明治十八年
七
月天竜川がまた決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈 / 松島授
三
郎 西遠農学社
三
遠農学社
浜松市史 三
(三方原沽券地改正絵図 三方原の村名)
浜松市史
三
/
三
方原沽券地改正絵図
三
方原の村名 こうして気賀林を主とする
三
方原茶園経営は終り、第
三
期の横田保の時代,【六百
五
十筆 九十二町歩】図は一部が欠損しているが概算筆数が六百
五
十、地番は一番より
七
九九番に及び、登録人名数,最大が気賀半十郎の一万
五
百四坪で最小は百坪、六百坪以上が百十一名、二千坪以上は十九名で、気賀半十郎ほか,江川永脩九千六百
七
十
五
坪、気賀林六千六百四十
三
坪、間宮鉄次郎六千
五
百六十二坪、原良平四千四百八十四坪、,仁科鉱司
三
千九百坪、佐藤清典
三
千六百坪、能勢正直
三
千二百四十
五
坪、小櫛捨
三
三
千百四十
五
坪などである。 /
三
方原沽券地改正絵図
三
方原の村名
浜松市史 ニ
(三郎五郎新田)
三
郎
五
郎新田
三
郎
五
郎新田 鈴木
三
郎
五
郎という者が十
三
人を使って西大塚の東地続きの地を開発したのがはじまりという,元禄六年・文化元年の石高四十六石で(西大塚町『鈴木家文書』)、延宝六年の年貢割付によると反別
七
町
七
反一畝余,)から慶応
三
年(一八六
七
)までの間に起返しが二十二回におよんでいる。,天保十四年の「新田高反別小前帳」をみると、当時この新田の戸数十戸人口六十
七
人、田一反
五
畝で畑
七
町一反
五
畝二十
三
歩,(表)天保14年
三
郎
五
郎新田の田畑反別 字名 上畑 中畑 下畑 下田 町反畝歩 町反畝歩 /
三
郎
五
郎新田
浜松市史 三
(三方原村成立)
浜松市史
三
/
三
方原村成立 行政的には明治六年(一八
七
三
)二月には敷知郡第一大区二十一小区に属し初代小区長が間宮鉄次郎,であったことはすでに述べたが、その後十二年
三
月まで第十二大区二十小区となったり曲折があったが、町村制施行,、四十
三
年四月一日より組合を解き初めて完全に独立した自治村となった。,四十四年末には戸数二百四十戸、人口千六百九十一人と増加し、面積総反別千
三
百
七
十六町余、そのうち帝室林野千百
五
十二町歩,そして民有地のうち畑地は茶園をふくめ百
三
十九町歩に達していた(『浜名郡
三
方原村誌』)。 /
三
方原村成立
浜松市史 五
([三方原用水導入による新水道計画])
浜松市史
五
/ [
三
方原用水導入による新水道計画] 【
三
方原用水 大原浄水場】 昭和四十二年(一九六
七
)八月二十八日,、
三
方原用水の幹線国営水路が完成、水源地の秋葉ダムと
三
方原台地で歴史的な通水式が行われた。,を昭和
三
十
七
年から進めてきた。,そして昭和四十
三
年
三
月にはこの事業の心臓部に当たる大原浄水場の第一期建設工事が完了、同年
七
月一日から給水,この浄水場はこれまでの住吉浄水場に比べ、敷地は
三
倍、浄水能力は二倍で、一日
五
万トンを給水することが出来 / [
三
方原用水導入による新水道計画]
浜松市史 三
(四月と五月の空襲)
浜松市史
三
/ 四月と
五
月の空襲 四月から
五
月へかけて空襲もいよいよ本格化し大規模となった。,【四月
三
十日の大被害】四月
七
日には成子町(やまや醬油被弾)・菅原町方面などが被弾(死者六一名)、四月
三
十日,、南部の東伊場・菅原・寺島・龍禅寺(上記寺島・龍禅寺の両町に落下の爆弾は
三
〇〇で被災地域は全町の
三
分の,【犠牲者九六九名】この日だけで全壊家屋二千二百二十九戸、全焼家屋千
五
百八十八戸、半壊千
七
百
七
十六戸、半焼百十一戸,、死者九百六十九名、重軽傷者
五
百八十四名を出した。 / 四月と
五
月の空襲
浜松市史 三
(明治二十三年度)
浜松市史
三
/ 明治二十
三
年度 明治二十
三
年度 町長は小西四郎より再び内田正(明治二十
三
年
七
月
三
十日就任、二十四年
三
月二十
五
日辞職 / 明治二十
三
年度
浜松市史 三
(三方原茶生産額 百里園製茶所)
浜松市史
三
/
三
方原茶生産額 百里園製茶所 【十
七
年】明治十
七
年の
三
方原の茶生産額は六千
三
百二十貫(価格
七
三
八〇円,)、この額は当時の浜名浜松の生産額二万八千八十貫(価格
三
三
五
四九円)に対し二十二%であった(『静岡県茶業史,年生茶収穫八千
七
百
三
十九貫、焙炉数百八十八個と増加したので、新に製茶場の建設に着手したが十月十
五
日の暴風,これが百里園製茶所で(明治四十
五
年焼失)、馬渕平八を責任者においた。,金指往還に面し、面積
三
千四百二十坪、そのうち工場坪数千
三
十坪(右図参照)であった。 /
三
方原茶生産額 百里園製茶所
浜松市史 三
(子規三方原句碑)
浜松市史
三
/ 子規
三
方原句碑 昭和六年四月には浜松市天林寺境内に「馬通る
三
方原や時鳥」の子規の句碑を建立したが、翌
七
年十一月二十四日市内森田町地先,
五
十八歳であった(郷里榛原郡川崎町に葬る)。 / 子規
三
方原句碑
続三ヶ日町史
(続 三ヶ日町史 目次)
続
三
ヶ日町史 / 目次 『続
三
ケ日町史』
三
ヶ日町 平成一
七
年 第一章 第二章 第
三
章,金融機関 153 四、観光業の推移 158
五
、観光振興事業 160 六、労政関係 164 第
三
節,263 一、文化協会と体育協会・町民スポーツ 263 二、婦人会等
三
団体 273 第
五
節 交通・,医療 360 第
七
節 環境・防災 361 一、
三
ヶ日の地質と気象 361 二、ゴミ・し尿処理 368,
三
、環境教育 369 四、猪鼻湖浄化 372
五
、防災と対策 373 六、消防の組織と現状 / 続
三
ヶ日町史 目次
浜松市史 三
(四代五代市長 都市問題 市機構改革)
浜松市史
三
/ 四代
五
代市長 都市問題 市機構改革 【渡辺素夫】竹山市長が大正九年
三
月二十四日満期退職となると、迎えられて,、
七
十六歳)が市長に就任した。,、大正十年
三
月には規定を改め主事を置いて課長に充て、主事以下書記・書記補・技手・技手補を通じて定員
五
十名,すなわち第一課 庶務 戸籍(議事・会計)(主事一名、書記
五
名、書記補
七
名、消防技手一名) 第二課 学務,掃除巡視
五
名) 都市計画課 (課長一名、書記一名、技手一名) 収入役附属(書記補二名)。 / 四代
五
代市長 都市問題 市機構改革
浜松市史 三
(浜松教導職 浜松中教院 五社神社)
浜松市史
三
/ 浜松教導職 浜松中教院
五
社神社 これを浜松県でみると、浜松県の教導職の活動は明治六年に始まった。,十月に県内の神官
七
十の教導職採用願を提出し(『岡部家文書』)、十一月に最初の説教を浜松利町の
五
社神社で,翌
七
年八月には浜松中教院を
五
社神社境内に設立し、翌八年二月には鎮座祭を施行し、その後ここを会場とし、神仏各,の教導職が互に交代して説教を昼はもちろん夜も行なったが、十間に
三
十間の桟敷まで用意する盛況であったという,ちなみに
七
年末において県内の教導職は神官
七
十六名・僧侶
七
百八十四名・士族一名・平民六名であった(『浜松市史史料編六 / 浜松教導職 浜松中教院
五
社神社
浜松市史 三
(浜松地方と三河を結ぶ鉄道案)
浜松市史
三
/ 浜松地方と
三
河を結ぶ鉄道案 浜松地方と
三
河方面を鉄道で結ぶ案もしばしば計画された。,は浜松鉄道により、気賀(大字広岡)から
三
ケ日・石巻村を経て豊橋に至る遠
三
鉄道株式会社計画もその一つであった,この遠
三
鉄道株式会社は、建設費
三
百四十六万円余、浜松からは宮本甚
七
・中村藤吉・鈴木幸作・伊藤要蔵らが計画,し、二年九月には浜松市公会堂で創立総会まで開かれたが、不況のため
五
年十月解散となり実現しなかった。,また、大正十
五
年には浜松から雄踏・新居・白須賀を経て豊橋とを結ぶ鉄道の計画(宮本甚
七
・金原明徳・久野茂 / 浜松地方と
三
河を結ぶ鉄道案
浜松市史 三
(三代市長 市功労者規定 総代制度)
浜松市史
三
/
三
代市長 市功労者規定 総代制度 大正四年十月浜松市功労者規定が発布され実施をみたが、功労者として表彰,された大部分は鉄道院浜松工場の誘致または歩兵第六十
七
聯隊の設置に尽力した人々であった(その後表彰は第二回大正
五
年,、第
三
回九年、第四回十二年、第
五
回十四年と実施され、功労者も浜松高等工業学校設置、他に自治又は教育功労者,ついで大正
七
年八月区長制度(大正元年十月末日区長設置規程が設定された)が廃止となり各区はこれより従来慣行,この月米騒動がおきたが、これについては別項(第
三
節)に記す。 /
三
代市長 市功労者規定 総代制度
浜松市史 三
(工業組合法による再編成 五組合誕生)
浜松市史
三
/ 工業組合法による再編成
五
組合誕生 ついで昭和六年になると工業組合法(昭和六年公布)による組織の再編運動,そして販売業者・織布業者・染色業者の
三
者を包含する遠江織物同業組合もかつては販売業者主導型の組合であったが,から八年にかけて左のような
五
組合が誕生し、遠江織物同業組合は同八年十二月の遠江南部織物工業組合の発足を,①遠江染色工業組合開進社 昭和
七
年
五
月に浜松市と浜名郡の染色業者によって設立。,
三
部門(銅版加工・手加工・整理)に分れ運営され、同業者の権益確保につとめた。事務所浜松市馬込町。 / 工業組合法による再編成
五
組合誕生
浜松市史 三
(二月の空襲 三月の空襲)
浜松市史
三
/ 十日と十
五
日には砂山・寺島・海老塚方面に被害が出で、死者百名を超え焼失家屋も
七
百戸以上に及んだ。,南国民学校も全焼し児童十
五
名が亡くなった。,【浜松基地】つづく十六日、十
七
日には艦載小型機の編隊が八十機、浜松の飛行基地・鈴木織機高塚工場等を襲撃,焼夷弾の混投攻撃があって死者
五
人を出した。,
三
月一日には食糧営団も
三
組町秋葉神社側の洋裁学院内に移った。 / 二月の空襲
三
月の空襲
浜松市史 三
(三方原臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校)
浜松市史
三
/
三
方原臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校 【大正十
五
年】これよりさき、浜松郊外の
三
方原に爆撃を専門とする,飛行第
七
聯隊が設置されたのは大正十
五
年の九月であった。,
三
方原は、陸軍が大正八年に第一次世界大戦後の空軍の発達に対処するため、フランス将校を招いて(浜松では学童,歓迎に出た一万
五
千の市民ははじめて見る
七
台の大型の爆撃機(双発複葉
五
人乗、仏ファルマン製)が百八十万坪,【満蒙出動】部隊編成も完結(四個中隊
七
〇機)し、
五
年の満蒙へ示威の初出動につづき翌年の満州事変には満州 /
三
方原臨時飛行場 飛行聯隊 陸軍飛行学校
太陽と潮風五島遠州浜:わが町文化誌
(浜松市立五島公民館『太陽と潮風 五島遠州浜:わが町文化誌』 目次)
太陽と潮風
五
島遠州浜:わが町文化誌 /
五
新しいまち(自治会)の誕生 35 六 遠州浜団地 36
七
変りゆく自然 40,(
五
)県立浜松養護学校 240 (六)県立浜松江之島高等学校 241 (
七
)
五
島幼稚園,(
七
)学芸会 257 (八)子供会 257
三
文化的施設 259 (一)
五
島村役場,)遠州灘海浜公園 263 (
五
)江之島水泳場 264 (六)
五
島公民館 266 (
七
,)浜松市天文台 267 (八)文教地区によみがえった
五
島 269 第
七
章
五
島のこれから / 浜松市立
五
島公民館『太陽と潮風
五
島遠州浜:わが町文化誌』 目次
浜松市史 三
(百里園茶製所 三方原救貧院)
浜松市史
三
/ 百里園茶製所
三
方原救貧院 これよりさき、気賀林は明治八年一月
三
方原に新居をかまえ、ここで百里園の事務,しかし
三
方原在住士族の代表者はその名簿にはなかった。,製茶の業も進み、十二年
七
月には
三
方原製茶共進会へ、また十月の横浜における製茶共進会には二等賞をうけ、収穫高,も十
三
年には二万
五
千斤に達した。,【祝賀会】
五
月八日大迫貞清は石黒務書記官とともに気賀林の招きで百里園を訪れたが、茶摘女・耕男千百人余で / 百里園茶製所
三
方原救貧院
三方原:わが町文化誌
(浜松市立三方原公民館『三方原:わが町文化誌』 目次)
三
方原:わが町文化誌 /
三
方原台地の地形と土壌
三
三
方原台地をとりまく気象と防風林 四
三
方原台地の植物
五
,
三
方原の戦い 四
三
方原の夜明け
五
大正の
三
方原 六 昭和の
三
方原
七
戦後の開拓, 碑・史跡を尋ねて
五
いいつたえ 六 民間信仰
七
三
方原の宗教 八 子どもの遊び,二
三
方原の工業
三
三
方原の交通 第
五
章 急速に進む都市化と未来の
三
方原 301 一, 人口の増加 二 大型集合住宅の増加
三
大型店舗の増加 四 金融機関の進出
五
三
方原台地 / 浜松市立
三
方原公民館『
三
方原:わが町文化誌』 目次
浜松市史 三
(遠州灘海岸平野 天竜川平野 三方原台地)
浜松市史
三
/ が多く③
三
方原洪積台地方面は少なかった。,【森田】森田町の日本航空会社工場では
五
棟倒れ死者二名、小糸航空工場では全壊四棟、死者九名があった。,鈴木織機会社高塚工場へ出動中の誠心高等女学校の生徒
三
名もこのとき圧死している。,ことに下池川町の六間道路に沿った地域では上池川町を合わせ全壊十
五
棟、半壊二十
七
棟、傾斜
七
十棟、水道湧水六百,また駅南地域の馬込川沿いの砂山町・寺島町・龍禅寺町でも倒壊家屋
五
棟、半壊
七
棟、傾斜十棟を出した。 / 遠州灘海岸平野 天竜川平野
三
方原台地
浜松市史 三
(三川排水改善期成同盟会 浜名用排水幹線改良事業)
浜松市史
三
/
三
川排水改善期成同盟会 浜名用排水幹線改良事業 浜名耕地整理組合の解散後も関係地域住民の灌漑排水改善,の願望は根強く、昭和
五
年
七
月には「馬込・芳・安間
三
川用排水改善期成同盟会」(会長、高林泰虎)が生まれた,
三
川関係地域の一市(浜松)二十一か町村が参加し、地区内農業用排水幹線改良工事の県営施行を目ざして、内務省,内務省宛の陳情文(昭和
七
年八月)では、農家経済不況の折柄、政府が「産業振興土木事業」の趣旨にもとずく河川,諸工業の躍進を見るべく、③さらに分水された天竜の浄水により汚水の停滞になやむ馬込川・新川もきよめられ十
五
万市民 /
三
川排水改善期成同盟会 浜名用排水幹線改良事業
浜松市史 五
([道路の改良・舗装と国道昇格])
浜松市史
五
/ [道路の改良・舗装と国道昇格] 浜松市の道路延長は、国道、県道、市道を合計すると昭和
三
十六年の約二千
五
百
七
十,キロメートルから同四十
七
年には約
三
千十キロメートルへ増加し、同期間に国道は二十
五
キロメートルから
五
十八,キロメートル、県道は百
三
十二キロメートルから百六十
五
キロメートル、市道は二千四百十二キロメートルから二千
七
百八十
七
,他県道八・
五
%であったが、昭和四十
三
年には、国道一号線百%、他の国道(一
五
〇号線、一
五
二号線、二
五
七
号線,市道の総延長から見ると昭和
三
十六年の約二・
七
%から四十
七
年には約二十二%に増加した。
浜松市史 五
([遠州鉄道バス])
浜松市史
五
/ 〇倍、車両数で四・八倍、輸送人員で
三
・
七
倍の規模であった。,その後、同バスは営業キロで昭和四十
三
年には千百十
七
キロメートル、走行距離で二千二百八十四万
五
千キロメートル,この間、昭和
三
十八年度
五
十両、四十年度九十二両、四十一年度八十
五
両、四十
五
年度六十九両の車両を購入して,輸送人員は、昭和
三
十四年度の
三
千九百八十万人からピークの昭和四十年度の
七
千
五
百四十万人へ八十九%の増加,、車両数で四・四倍、輸送人員で
三
・
五
倍となり、この
五
年間に市営バスとの経営規模をさらに広げた。
浜松市史 五
([固定電話の減少と携帯電話の普及])
浜松市史
五
/ 昭和
五
十一年に浜松市内の
五
六局と
五
七
局に制御信号に電子回路を利用する電子交換機が導入された。,同
五
十
七
年
三
月には、住吉局に通信信号をデジタル処理するデジタル交換機が導入された。,このうち、住宅用は平成九年の約十
七
万
七
千台をピークに減少し、平成十
三
年には約十六万
三
千台へ約一万四千台,事務用は、不況を反映して、ピークであった平成
七
年の約九万
三
千台から平成十
三
年には約
五
万九千台へ約
三
万四千台,四%から、平成十
五
年度末には約六十
七
・九%へ上昇した。
浜松市史 五
([地震防災施設の整備])
浜松市史
五
/ 、水道施設など(浄水施設など)、市有施設(庁舎の耐震化、防災活動資材)などであった(『静岡新聞』昭和
五
十
五
年
三
月六日付,)、実際には八十
三
棟に変更され、翌年度はさらにこれを増やした(『静岡新聞』昭和
五
十
五
年九月二十一日付),【可搬式消防ポンプ】 昭和
五
十
五
年
三
月
五
日市消防本部は可搬式消防ポンプを市内
三
十
七
の自主防災隊に貸与,このポンプは同
五
十九年度末までに
三
百
七
十六台が貸与された。 ,は少なかった(『静岡新聞』昭和
五
十
七
年
七
月
三
十一日、同
五
十八年
五
月二十
七
日付)。
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